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教室を皆で掃除するということ~ワールドカップ随想~

 今回(2022年度)のワールドカップも世界中のみならず、日本でも盛り上がった。特に、日本が、強豪ドイツ、スペインを撃破し、決勝トーナメントに進み、もう少しのところでベスト8に手が届くところであった。クロアチアとのPK戦で、ベスト8に手が届く寸前までに至った、それが最大の要因でもあろう。従来のオールジャパンとは、一味違った意味で成長したことが最大の要因であろう。結果、FIFAの評価、今回の参加国内で9位、史上最も上位に評価される結果ともなった。また、FIFAランクも20位と上昇した。

 この、カタールに旋風の巻き起こしたオールジャパンは、あいかわらずそれだけではない。試合後、控室のロッカールームをきれに掃除し、整頓し、その後に撮ったワンショット写真は、他国のメンバーにも、アスリート以前の、スポーツマンシップの心の身だしなみに影響を与えたようである。それだけではない、スタジアムの日本サポーターも同様である。試合後、スタンドの後片付け、つまり、ゴミやペットボトルなどを、“立鳥跡を濁さず”ではないが、試合前、試合後、全く変わらずその施設を、きれいにして、その場から立ち去る姿も、世界のサポーターのみならずテレビの前の世界中の観客にも、ある種の、マナー・エチケットというものを、具体的に、分かりやすく、目覚めさせたようである。

 こうした選手とそのサポーターの、自身の使用したものへの心配り、配慮といった“遺伝子”は、恐らく、学校、それも小学校時代に育まれたと考えられる。日本社会、とりわけ、初等中等教育では、自分たちの教室を放課後清掃するということが、習慣、当たり前となっている。この学校的慣習とは、世界を眺めても、珍しいという。普通は、欧米などでは、掃除担当者(業者)が生徒たちの使用する教室や廊下を清掃するのが慣例ともなっている。日本は、小学校の頃から、自宅から生徒個人個人が雑巾を持ち寄り、掃除することが<学校の習わし>ともなっていて、私立公立を問わず、それに対して何の疑問ももたず行っている。公共なるものを、公共なる精神で、大切にする社会的慣例、いや、倫理観が学校という場で育まれてゆく。

 エジプトなどでは、こうした日本では当たり前の<日本の学校的習慣>を取り入れている。この、自分たちのものを、自分たちで保持する、維持する、大切にするという道義的ルーティーンとやらである。何も世界が日本の文化に着目する、時には、敬意すら払うのは、食における寿司やラーメン、娯楽におけるマンガやシティーポップだけではないのである・

 実は、この自分たちの教室を自分たちで清掃するという自覚、感覚というものは、実は、戦前にはあった、修身という教科の一環として、戦後も生き続けている、最も大切にすべき、最優先的行為とすべき教育上のモラルでもある。
 今では、名ばかり教科ともなってしまった道徳の時間が、むしろ、<修身>という教科で生徒に自覚させてもいいくらい、平成から令和にかけて、公共心、いわば、集団・社会の中のモラルが消滅しかけてもいる中、この日本選手団、そして、そのサポーターの中に、彼らの行動、行為の中に、その残滓が、外国では、光っても見えるのである。ここで私が語っている視点や観点というものは、丁度、明治時代に新渡戸稲造が“武士道”というものを規定した、その時代には、すでに、そうした武士の倫理観などなくなりかけていたのと同様の見方でもあろうか。
 ここで私が言いたいのは、小学校から中学校にかけての義務教育で、最も大切なことは、この社会性、教室を生徒が掃除することが当たり前の精神、それを涵養することに尽きるということである。これだけではない、骨折した松葉づえのクラスメイトの荷物を、校門まで運んであげる、また、長期欠席した友人のために、自身のノートを貸してあげる、具合の悪そうな女子生徒の表情から、我慢と裏腹な心理を読み取り、先生に申し伝えてあげるなどなどである。
 オンライン授業で、教室に赴くこともなく、まあ、友人と教室で出会うこともないコロナ下の状況、さらには、何から何までデジタルの社会に組み込まれた学校というシステムでは、こうした、戦前からの<修身>のよき遺伝子を死滅しかねない危機に現代ではさらされてもいる。
 これは、養老孟司氏も語っていたことだが、今や、世界、社会はデジタルに飲み込まれている、そうしなければ、生きてはいけない、また、勝ち残ってはいけない。パブリックからプライベートに至るまで、デジタルの空気を吸わずしては、生き残ってはいけない世知辛い時代であり、世の中である。だから、学びの教科は、ネットでも、電子教科書でも、非学校の場で十二分に分学べる。だから、むしろ、学校という場は、自然に接することを第一として、生の人間と空間をともにする体験を第二とする非デジタル、アナログの機関にすべきであると説いておられる。
 司馬遼太郎は、日本人の良さとは、他人を慮る、その共感力にあると語っていた。数学者藤原正彦や作家曽野綾子の日ごろ主張されてもいる日本人の長所とは、“惻隠の情”にあるとも述べておられる。
 『幸せは弱さにある』(曽野綾子)や『人生は負けたほうが勝っている』(山崎武也)という人生の逆説的真理を、スマホは、若者から忘却させてもいる。これは脱線もするが、大方の賢人も語っていることだが、「人は、成功からは何も学びはしない。失敗から多くのことを学んでいる。」と一脈通底する人生訓の本質でもある。

 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。(吉田兼好)

 便利さや効率という陽の側面しか目が向かない大衆には、知恵にのみ執着している証拠である。<智慧>というものを知らない凡人には、ただ他人と比較することに、その一方、他人と同じであることを望む、そういった矛盾するメンタルが巣食ってもいる。「不幸とは比較することにある」の格言から解脱するには、この<智慧>というもの、それは、<修養>ともいっていいが、これを、<修身>と同時に忘れてしまったからでもある。
 この両著をつなげる名言として、「苦しみを経験するから幸せの有り難みが分かる。苦しむことは幸せになるためのプロセス。」(三輪明宏)が最適でもあろうか。スマホは記憶力や集中力を衰えさせているだけではない、それは文明化の宿痾である。我々現代人が、平安時代、鎌倉時代、江戸時代と、文明の流れで、それは必定にして必然である。しかし、思考力は、色あせさせてはいけない。でも、“情報の量と思考の量は反比例する”という箴言にもよるが、大方は、そうなってはいない。
 そうした、知力的側面は、致し方あるまい。だが、この<教室を皆で掃除する共徳心>は、<他人を、社会を慮る想像力>は、根絶やしにしてはいけないのである。それは、人間のコンピュータ化、AI化ともなる。デジタルという武器のしもべとなれ果てた証拠ともなるからである。

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