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教科としての英語と歴史

 中等教育における、英語と歴史を学ぶ実相ということを考えた時、中高生の学習の、興味深い心象風景とやらが見えてくる。ただし、これは、理系科目の数学と理科に関しては、余り該当しない仮説でもある。それは、その理系科目は、数学にしろ、物理や化学にしろ、英語や歴史に対置する直接的動機や面白みが、将来に就く仕事、医師やエンジニアなど、解離してゆく点にもある。
 
 まず、英語に関してだが、小学校の段階で、英語を学ぶ動機や行為は、外発的である。10歳前後の子供が、書店に赴き、英語関係の、英会話関係の本を購入し、それを通して、英語がしゃべれるようになることは、想像できない。ここでは、帰国子女やアメリカンスクール系の小学生は除外する。準ジャパの少年少女は、その親が子供英会話スクルールや、ネット、また、個人的に英語を先取りして、片言の英語を学ばせているにすぎない。その過程で、英語が好きになる者、嫌いになる者、少々しゃべれる段階になる者、全く無駄で向上しない者、様々な中学生英語学習者予備軍を、平成後半から増殖してきた。
 
 この小学生英語学習者は、中学の段階において、先ほどの4タイプが、英語の成績とドッキングして、しかも、嫌いにならない心理的プラス効果を持続しながら、高校へと進むものは、幸いでもある。幸せとは言ってはいない。
 さらに、高校の段階ともなると、小学生の延長に過ぎなかった会話主体、話し、聞く重視の英語から、読み、書き重視の英語、極論ながら、受験英語からアカデミック英語へと軸足がシフトする。小学校、中学校、そして、高校と、この3ステップを、嫌悪感なしに、嫌悪感が伴っても仕方ないが、大学へと進むものは、ある意味、学校英語の勝者、“英語”の幸せ組ともなる。最終学歴が、有名大学となるキャリアルートの一般的勝者と同類でもあるからだ。文系理系には、英語という関所が避けて通れぬ宿命の幸運組でもある。
 
 初等から中等教育にかけての英語の学ぶ実相とは、ざっとこのようなものである。
 
 一方、歴史という教科はどうであろうか。まずは、世界史は、除くとしよう。
 小学生で、歴史という教科の立ち位置というものを、考えた時、英語とは、全く逆の実相が見えてもくる。
 これは、その子供の家庭環境、ある側面の文化資本がものをいうジャンルである。 
 家庭内に、歴史関係の小説や専門書がある。また、親子で大河ドラマや歴史関係のEテレ番組を欠かさず観る、戦国無双などのテレビゲーム、キングダムなどのマンガ・映画から様々な武将に興味をもつ、更に、親が、車中で、リビングで、頻繁に、歴史上の人物なりを口にしては、軽い批評なりをするプチ知的雰囲気の中で育つ、更には、集英社、角川書店、小学館、講談社といった『マンガで学ぶ日本』歴史数十巻などを買い与えて読ませている{東大クイズ王の伊沢拓司やビリギャルなどこのケースである}、などなど、その子供に何らかのきっかけを与えて、我が子が、内発的に、その時代、その人物に熱くなる、夢中なるメンタルを誘導している、また歴史への興味関心のフックとさせてもいるのである。これが、英語とは違い、ある面では、内発的な学びともいいうる点である。
 
 あの林修氏などは、中学受験を小学校6年から始めたという。しかし、そのたった1年で名古屋圏内の名門校東海中学に合格する。しかし、彼は、それ以前に、祖父の書棚にあった日本文学大全集を読破し、源氏の家系図を自身で独自に研究し、立派なノートを作成するまでの歴史オタク(歴史好き)でもった。小学校時代は、読書、そして、自発的に何か、それは歴史でもいい、それに熱くなる、それで鍛えられた、純朴なる集中力さえ持ち合わせていれば、中等教育で挫折することもない見事な一例でもあろうか?
 
 これが、中学生になっても、歴史に興味を抱く少年や少女を生み出す、バックボーンともなっている。しかしである。あの小学校で学んだ、面白かった英語、英会話とやらが、中学になり、点数評価、また、英文法という規範に基づいて教えられ、その点数が思わしくない現象が、大方の12、13の思春期の内面で起こる、それと同じ精神状況が、歴史という科目でも生じるのである。つまりは、大河ドラマで知ったエピソード、歴史小説で身につけた人間模様など、歴史のテストでは、ほとんど出されぬことに、つまりは、お勉強としての日本史とやらに幻滅するのである。
 こうした、娯楽、趣味で学んだ歴史と教科書に記載され、一種、科学としての、学問としての歴史との峻別ができない、一線を画することができない、ワンランク上の、知的、教養的事実としてのたしなみが、了解できない心的幼さは、ちょうど、中学生にもなって、英文法を学ぶ覚悟ができず、小学校英語の延長で、中2、中3と学び続け、真の使える英語の意義について、わきまえられない、勉強負け組ともなる中学生の心象風景と相関関係をなす。
 
 ここで、であるが、この中学、そして、高校で学ぶ歴史という科目が、よく、暗記科目に墜しているとの反省から、その改革として、歴史総合なる科目が新設されたもようであるが、この歴史総合なる科目は、英語も教えている塾講師の観点からすれば、英単語も貧弱、英文法も中学生レベルで、英語の大学入試で課される自由英作文にチャレンジするようなカリキュラムである。つまり、この歴史総合は、短視眼的にには、重要そうに見えながら、遠視眼的、複眼的に概観してみると、従来の、近現代の日本史や世界史よりももっと難しく、教えるには一筋縄ではいかない状況が浮かび上がってもくるのである。
 
 幕末の最重要人物も、歴史的事象も中途半端しか知らない、さらには、その19世紀の帝国主義の列強国の世界史の最低限の知識すらない、そうした高校1年に、「明治維新とは、革命だったのか、改革だったのか、それを述べよ」といっている、上から目線の理想的な科目設定でもある。これは、今般の共通テストの問題の質を鑑みた時、全く同じことが、指摘できるのである。
 
 それでは、この歴史、特に、高校生に歴史を学ぶ意義、目的、動機など、様々な角度から、果たして、高校1年生に、歴史総合なる、理念は崇高でもある、この科目が、定着するのか、有効であるのか、それを、次回語ってみたい。 
 因みに、社会人になって、歴史の重要性に気づいた者、教養としての歴史を身に付けなくてはと、歴史に開眼し、そこそこ、自身のキャリアに結びつく、いや、生きる糧ともなっているサラリーマンは、丁度、社会人になって、英語をやり直して、我がものにして、仕事なり、生活上のプラスにしている人と同類でもある。それは、まさしく、高校生の歴史と英語の教科の勝ち組の受験生にかぶって見えてきてしまうのである。

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