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食の環境が学びの習慣を蝕んでいる

 私は、自身の味覚を、いや、美味しいものを判別できるグルメとは、自認などはしてはいなが、味覚の王道ならぬ、味覚の正道を歩んできたことは、自信をもっていえる。
 
 巷には、食品メーカーの社長、お菓子メーカーの重役、コンビニ業界の部長などが、新商品の試食会をパスして、その新商品に製造ゴーサインが出されるケースはとみに有名である。セブンイレブンのカリスマCEO鈴木敏文が、セブンアンドアイを解任され退社するまで、その社内でその試食会が続いたともいう。こうした、会社を背負って立つ経営者には、名料理人や美食評論家などの味覚のアドヴァイザーは必要ない、むしろ、一般大衆を視野にいれた、最大公約数的“うまいの”基準という、揺るぎない自覚と自信に裏打ちされた価値判断さえあれば、そうした会社の重責は務まるものである。即ち、味覚の正道とは、どういうものなのか熟知さえしていればいいだけのことだ。
 
 「中華街のチャーハンは一回食べれば、しばらくは食べなくてもいい。しかし、場末の街中華のチャーハンは毎日食べてもいい、食べ飽きない。」「本当に美味しいいものは、値段、量、そして、味の三つが均整を整えた正三角形を描く料理である。高級料理は大方うまいのは当たり前、しかし、それは、量が少ないとか、値段が張るといった難点がある」
 まあ、ざっと、私の、味覚の規矩を申せば、こんなところであろうか。私的グルメ観なるものを申し述べたまでだが、これを前提に、話しを拡げてみよう。
 
 まず、私の好きな日本料理である、蕎麦、寿司、天ぷらを例にあげよう。
 コロナ禍で、すっかり定着した感がある、ウーバ―イーツなる宅配食がある。この三品は、店屋物として、宅配は昭和からあった。しかしながら、本物の蕎麦、絶品の蕎麦は店内で食べるに限る。その場で食する、そのせいろ蕎麦の旨さが100点だとすると、5~10分後に自宅に届けられる、そのせいろ蕎麦の旨さは6~70点に激落ちする。寿司なども同様である。カウンターで即、出され、即、食する、その人肌燗のある握りずしが100点だとすると、折り詰めでテイクアウトする握りずしの旨さは4~50点に落ちる、ましてや、スーパーで握り置きされた、トレーに入った寿司など、鮮度から何からして3~40点ほどに激落ちする、だから、まず、寿司などは、スーパーは勿論、お持ちかえりすらして購入などしない。天ぷらなどもってのほかである。よく高級てんぷら店がデパ地下などで多数出店しているが、そうした名店のコーナーを、私は冷ややかな横目で素通りする。そんな冷めきった天ぷらなんぞは、決して購入したこともない、その名店の、揚げたての風味が100点とすれば、1時間後の、自宅で味わうその高級天ぷらなんぞは、味が50点以下に急落する。
 
 以上より、蕎麦、寿司、天ぷらといった日本食は、そもそも持ち帰りや宅配など、中食には適してはいない料理なのである。これは、洋食系のフライにしても、焼き鳥やピザにしても大方当てはまる。テレビでも取り上げられていた、某超有名モンブランの洋菓子も製造から10分が賞味期限であるそうだ。カウンター席で、そのモンブランを客は食する、食しなければならないという。寿司以上に鮮度が売りでもある。まるで、高級すしをカウンターで食するかのような高級モンブランである。
 
 今、以上のように、私が食に関して指摘した、食の盲点にして、味覚の、正直な死角なるものは、ほとんどの人は、忘れて、意識もせず、その暖簾や知名度といったものに負けてか、自己暗示か、自己欺瞞かは存ぜぬが、幻想の中で、旨いと錯覚、勘違いして賞味しているのが実態ではないだろうか。
 
 こう私から指摘されてみれば、そうかな、そういうものかな、と、ご納得され、実感すら込み上がってきて、私の論に同調してくれる方は、少なからずいるであろう。
 
 では、この食の直接性と間接性、時間のギャップ、食におけるトポス(作られたものを即、その場で食すべきであるという場)の重要性といった観点から、ご納得する人もおられよう。いや、この食の真実というものに、依然として瞑している、利便性優先主義者(なんでもかんでも自宅で食するのが第一と思い込んでいる人)がいるのも否定できない。利便性優先主義者とは、店に出向くくらいなら、宅配でその食品を味わう方がまし、映画館へ足を運ぶくらいなら、ネットフリックスなどで自宅で“快適に”映画を観たほうがいい、そういったアウターならぬ、インナーでもあろうか。そうした気質、性癖が、真の食の旨さへの味覚を鈍磨させてもいよう。そのくせ、音楽は、サブスクで聞き放題の種族は、生のライブに行きたがる。まあ、音楽というものが、リアルを求められてもいる最後の砦でもあろうか?<スマホで音楽族>に限り、ライブチケットへの渇望感が尋常ではないことが、それを証明してもいる。
 
 では、この食というジャンルを、教育(教え・学ぶという関係)という観点から、少々分析してみることにする。
 平成の初期、代ゼミが、衛星授業を始めた(授業の宅配)、平成中期に東進が、さらに、DVDによる映像授業を始めた(授業の作り置き)。一流講師の授業を、いつ、どこでも、だれでも受けられる(食せる)利便性というものに目をつけた予備校業界のビジネス化の走りであり、始りでもある。平成後半、スマホやパソコンによる、低額サブスク授業の普及(授業の冷凍化)した。特に、リクルートによるものが有名である。スタサプである。これは、大学受験のみならず、中学生や小学生にも波及し、ベネッセやZ会の通信添削ジャンル(蕎麦や中華の昭和期の出前)を侵食凌駕していった。これらは、教育のデジタル化の象徴でもある。ある意味、教育のファースト(フード)化である。利便性優先、自宅で、外に出向かずとも、教育が受けられる、不登校生や引きこもり者も受け入れるN高にも典型的にみられる現象である。教育の間接化でもある。こうした、教育ジャンルにおける利便化、効率化、ファースト化は、食というジャンルにおけるウーバ―イーツと同じ現象で、コロナ禍で、オンライン授業の普及と並行して、常態化してもきた。

 話は逸れるが、山下達郎というミュージシャンは、これほど、日本でメジャーなアーティストとなりながらも、DVDは一切出していない。{※彼が引退か、死去した後、妻の竹内まりやが、彼のライブDVDの発売にゴーサインを出し、巷に彼のライブ映像を目にしたら、衝撃をうけること間違いないであろう!「ああ!何で、現役中、存命中に彼のライブを観なかったのか!」と後悔する}ライブは生で聴くものという信念が、その第一の理由である。更に、彼は、彼ほど有名な歌手でありながらも、東京ドームは勿論、横浜アリーナや武道館ですら行ったことがない。「あんなところは、音楽を聴くところではない、聴かせる場所ではない」との理由からだ。彼の公演するホールは、NHKホールや中野サンプラザなどせいぜい収容人員が2千数百の場所に限られてもいる。こうした音楽観は、私の蕎麦、寿司、天ぷらのグルメ観と一致もする。

 こうした音楽観にも類比したものを持つ塾講師、個人的こだわりをもつ塾経営者が、こうした<授業の旬>というものを大切にし、十名未満で、授業をリアルで行ってもいる。その<授業の旬>とは、その生徒が、どの程度の学力で、どの程度のやる気があり、内容が、どの程度の難易度で、どの程度の重要度があるのか、こうした点を、四則演算し、リアルの10名未満の同じ空間で行うことを鑑みた<授業の妙>である。その、講義の旨さ(≒巧さ?)こそ、英精塾の特徴であり、強味であり、魅力でもあることは、席数10名足らずの、カウンター席で食する寿司の名店と同じであることを自負してもいる。山下達郎のライブというものが、どれだけのものか?世の中に、山下達郎に関心がない、好きではない、知らない音楽愛好家は、本当の蕎麦の旨さ、握りたての寿司の風味、揚げたて天ぷらの食感など知らない“自称グルメ”と同じといってもいい。
 
 世の中、非教育ジャンル、それは、食や娯楽でもいい、そうしたジャンルが、今や、非リアル、教育の宅配化、教育の“デジタル化”ともいっていい時代の流れと連関し、ますます学びの感性が鈍感になっている様は、令和の少年少女たち(Z世代)、そして、その親たち(30~40代)を概観すると、明瞭に、まざまざと痛感されてもくる。ある意味、その教育の間接性で満足して、それ以上伸びない、それで満足して、学びの、真の、本質的領域など了解せず、解らず、モノにできずに、それが、例えば、五文型{※疑問詞を含む文だと五文型を間違える!}だとか、仮定法{※If節のない仮定法(潜在仮定法)には、鈍感である!}だとかには分かった気になっている、自己満足している現場の高校生などは、<知識の、教科の、骨粗鬆症>に陥っている事態であることを誰も指摘しない。現場の英語教師は、ご存じやも知れぬが、英検準1級を所有している高校3年生でも、旧7帝大の二次の英語の記述問題の6割もゲットできない実態は、それをものの見事に証明してもいる。



 

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