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私の大学4年生時代~二刀流への目覚め~

 私の大学4年生時代のキャンパス生活を簡単に語るとしよう。
 
 私は、新聞奨学生として、学費を自身で賄い、生活費も自身で稼ぐという生活をしていた。一応、自力で学費を稼いでいるメンタルから、大学4年次は、ゼミ以外の全ての単位を取っていて、週1度、キャンパスに出向けば、それで良しとする生活となっていた。しかし、これが、セコイというか、学びのコスパ感覚に火をつけたようでもある。「年間数十万円の授業料を、自身が働いて、払っておきながら、週1コマ1時間半の授業、それは余りにも高すぎる!もったいない!元を取ってやろう!」商学部の授業へも色目を向け始めた。
 
 仏文科の学部上、様々な現代思想、もちろん、世界文学(フランス文学など)を渉猟してきた3年間、そして、一応は、フランス語(特に、読み中心だが)の鍛錬は、怠りなくやってきたわけでもあるが、丁度、4年になった時、横浜関内に東京市ヶ谷の出先機関ともいうべき、横浜日仏学院校が開校となった。毎週土曜日は、そこで仏会話なるものの研鑽を、恥ずかしながらつむことになった。大学だけでは、語学なるものは、一切使えるようにはならない事実を悟ったからでもある。恐らく、大方の仏文学の研究者は、大学とは別個に、日仏学院やアテネフランセなどの語学学校に通ったはずである。あの大橋巨泉も、早稲田の政経に進んでも、大学時代アテネフランセで英語(英会話)を学んで、その恩恵が大だったとも吐露している。実は、日本の語学教育は、東京外語大や大阪外語大などの語学系以外は、まず、その大学の教育でその外国語などしゃべれるようには、まずなれないものである。この高等教育における第二外国語と中等教育における英語は、まさに相似形、パラレルをなす事実には多くの人は首肯することであろう。
 
 どうしたものだろうか、商人の家庭、みな自営業の親族という環境で育ったせいもあるだろう、どうも、フランス文学とは別個に、別次元に、ビジネス、嫌な謂いだが、お金儲け、商売という世界にも、無視できない本能が、疼いてもいたのだろうか、少々、ビジネス関係の本、また、その当時、フェルメール同様に、まだ、知名度が今日ほど高くはなかったP・ドラッカーの書籍やマーケティング関係の書物を、仏文科の学生らしからぬ“知的風情”で、文学・思想以外の方面でも齧り読み、それを習慣にもしていた。
 
 大学4年間、四畳半の部屋には、テレビは置かず、ラジオ(ラジカセ)のみの生活を送ってもいた。世のニュースの源泉は、新聞とラジオのみでもあった。
 あれは、深夜、TBSのラジオを聴いていた時である。村田昭治という、実に弁の立つ慶應の商学部の教授の話の虜になった。彼は、マーケッティングの泰斗でもあった。因に、流通方面の研究が専門であった。その証拠に、昭和の時代、流通業の雄でもあった、百貨店を売り上げで追い抜く量販店の台頭、それも、東西の雄、ダイエーとヨーカドーの創業者の長男(跡継ぎ)でもある中内潤と伊藤裕久が彼の教え子(村田ゼミ出身者)でもあった。
 その村田教授というユニークで、実に、立て板に水、ビジネス門外漢でも、魅了されてしまう話術は、メディアでも重宝されていたようである。
 就職に役立つとか、有利になるといった目算、算段など、全くなく、4年生になった時点で、急に、ビジネス、マネジメント、マーケティングなるジャンルへの興味も湧き上がってもきた。そうした精神状況の中、ラジオからの、村田節による、ビジネスの話、商売の本質など、せんべい布団の中で深夜聞き入っていると、無償に、村田教授に会いたくなった、村田ゼミに入りたくなった。それが、思い立ったが吉日ではないが、その翌日、厚かましくも、村田教授、村田ゼミに、「聴講生でもいいから入れてください!」と直談判にいった。
 その日は、仏文科の高山(岩男)“バルザシアン”ゼミの卒業写真を撮る、確か、水曜日とダブってもいた。だから、自身の卒業アルバムの高山ゼミの10名前後の写真には、私は映っていない。ゼミは皆勤賞(その当日のみ欠席)なのだが、運悪く、その撮影のことを知らずに、村田教授のゼミへの入会面接時間とダブってしまったからである。
 
 村田教授のお弟子さんで、大学院助手の、上野何某という研究生の面接を受け、聴講の許可が下りた。それ以外にも、彼のマーケティングの講義(大教室)やビジネス論(中教室)を拝聴し、文学部の、語学、小説・思想、言語学などでは、癒し切れない我が知的渇望なる、雑食性を有する知的好奇心を満たす4年の春夏秋を過ごしてもいった。
 
 こうした、自身の、文学的感性、ビジネス感覚、この両面がいい意味で矛盾して同居するメンタルに気づいた時、その当時、流通業で、就職人気度ナンバーワンでもあった、セゾングループの堤清二という人間にも共感的興味関心が湧きおこってもきた。彼の人生は、弟で、西武グループ総帥堤義明の兄でありながら、妾の子という出自上、複雑な人生を歩んだ、文(学)商(学)の二刀流の知識人でもあった。西武文化、セゾン文化を象徴する、バブル期前後のカリスマ的存在でもあった。
 これが、私の、一般大学生とは異質な、相いれない気質の現われでもあっただろうか、弊塾の教え子に、大学生活の心得、大学生活の大計として、非常に、示唆を与える自身の側面ではある。つまり、「専門を持ち、更に、準専門を有して就活せよ!面接に臨め!」のメッセージにもなっているようである。
 
 これは、語学などに、特に当てはまる。英検1級を有して社会人となるよりも、英検準1級と仏検準1級を有して、キャンパスを後にしろと!語学と何等かの専門性であってもいい。令和の時代、大谷翔平を観るまでもなく、二刀流が、それこそが希少価値を生む。これは、表層的ゼネラリストを言うのではない、深いスペシャリストを有しながらも、プチ深いもう一人のスペシャリストを飼い慣らせということでもある。超高齢化社会で、人生二毛作、三毛作時代ではないが、福澤諭吉の漢学から始り、蘭学、そして、英学と自身の三毛作を成し遂げた偉人の、壮大なる知の構築物も参考程度にはなろうか、よい見本でもある。大学4年間を、同時並行的に、二毛作、三毛作と、自身の研鑽に努めるということが、肝要かと存ずる。アルバイト体験やサークル活動などは、ほとんどは、就活の武器になんぞになりはしない。お金がなければ、国内海外旅行やTDL・USJなどには行かず、「大学の図書館の全ての書籍を読んでやろう」くらいの気概で、そこに一日中入りびたる精神と習慣の方が、どんなにか自身を成長させるか、それは、社会人になってみないとわからない、真に成長した人間の実感でもあり、感慨である。
 
 尚、コロナ前には、就活のエントリーシートなどで記載する、通称“ガクチカ”(学生時代に力をいれたこと)のベタな内容(アルバイトやサークルでの自慢話)など、コロナの最中、コロナ後など、ほとんど意味をなさなくなった事実は有名である。コロナの最中、学生の本義である、勉強(専門性)と読書(専門性以外も)、そして、語学(英語など)、この三点に、自身と向きあって精進し、どれだけ“孤独という個室<Solitude>”で自己を陶冶したか、それが問われるポストコロナ下の現況が、令和5年の春でもある。因に、私は、時代がバブルに浮かれる中、この3点のみを、新聞奨学生という身分で実践してもきた。
 ※Solitude(独りでいられる) ≒ Loneliness(独りにされる)
 
<余談>
 これは、回を改めて、詳しく語る予定でもあるが、どうして、仏文科から、流通業のセブン&アイに就職することになったのか、そして、一次面接で、即、内定をとり{一対一の重役面接へ}、その後、東京プリンスホテルで、学卒320名の代表として、副社長や専務や常務などを前にスピーチするまでになり、現場体験を経ず、物流部という、最重要な部署(ポスト)に配属されるようになった経緯は、全て、以上の3点プラス、アルバイトなんぞという生易しいものではない4年間(新聞奨学生)を経たことが評価されたものと自覚している。
 
 

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