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リスキリングができる人、できない人➁

 世界史レベルだと、狩猟民族農耕民族、日本史レベルだと、縄文人彌生人、そして個人レベルだと、大手企業のサラリーマン・勤め人気質(毎朝の通勤や転勤が苦ではない派、そして何等かの趣味を持つ)と飲食店などの個人事業主・職人気質(早朝起床し、仕込みをする、そして、比較的趣味がない)、そして、プライベーレベルだと、アウター(海外旅行派・キャンピングや登山などを好む)とインナー(国内旅行派・自宅でビデオやゲームあるいは読書やゴロゴロを好む)という風に、人間というものを括れるのは、血液型分類や西洋占星術の区分以上に信憑性をもつものだという確信のもとに、一個人と仕事という関係にも適用できるような気がしてならない。こうした文脈、つまり、人種・種族・部族といった二分論から今話題のリスキリングについて考えるのも一興かと思い、この切り口で、世の仕事人のリスキリングについての、適応・不適応について考えてきた。
 
 リスキリングとは、世にいう、社会人の学び直しとやらである。それは、恐らく、古代、中世、近世、そして近代においても何等かのリスキリングというものが存在していた。それを、近世以降では、日本史史上、石川丈山(武人から文人へ)、伊能忠敬(商人から学者へ)、福澤諭吉(蘭学から英学へ)、そして、山中伸弥(臨床医から研究医へ)など枚挙に暇がないほどである。
 
 また、現代では、サラリーマン生活に限界、また、馴染めないなどで、弁護士から行政書士、また税理士など資格を取得して、人生の、社会人の第二ラウンドを目指し、事実そうなる人生もある。それは、令和の今では、リスキリングとは呼ばないようである。平成でブームとなった、不況期の資格ブームを挙げるまでもなく、おおかた、『資格を取ると貧乏になります』という新潮新書でも、つとに有名にもなった現実は、大方、真実でもある。昭和では、考えられない現実である。
その資格志望者の魂胆、心の奥底には、<守りの人生観>というものが透けて見える。資格をとれば、安心、食いっぱぐれはないだろう的楽観論者が大勢を占めるからである。それは、語学系の文脈でもいえることで、英検やTOEICなど資格系の勉強ばかりしていると、むしろ英語ができないという知る人ぞ知る‘語学上のパラドクス’に陥る事実と似たものがある。
 
 
 では、一言でいえば、現今のリスキリングの定義とは、何なのか?ズバリ言わせてもらうと、「リスキリングとは、人間のDXである!」と。この自己のデジタル化、DXに耐えうる、何とも思わない種族は、どしどしリスキリングをやればいい、それに二の足を踏んでいる者に、生理的・心理的拒否反応をする者に、私は、語っているまでである。今、巷で、いや、世界でも話題となっている世界最高齢アプリ開発者である若宮正子おばーちゃんなんぞどは、<大器晩成的デジタルギフティット>といってもいい、彼女の生き方なんぞは、生来の、その人の資質がものをいうとも言える。一般的高齢者は、参考にすらならない。こういう人種もいるのかと参考程度にとどめておくべしでもある。
 
 ここで、これも、また、世の中の人間の二分論ともあいなるのだが、人間には、やはり、アナログ人間とデジタル人間とが、厳として、存在するようである。しかし、月並みな謂いだが、このデジタル人間とは、Z世代やα世代といった、デジタルネイティブの部族を指す、また、若宮おばーちゃんの如き、潜在的デジタル対応資質を有する人間を言う。したがって、明治時代が後半になれば、封建的風習や和装・江戸の習俗といった文化が薄れていったように、令和という時代が、進めば、アナログという言葉は、レコードやカセットテープ、またラジカセという語と同様に、絶滅してもゆく、いや衰退してゆくのが必定と言った方が適切であろう。自宅の置き電話が、リビングから消滅する運命と同じようにアナログという言葉、観念などなくなっても行きかねない。
 
 民主、いや、民本主義が流行った、大正時代、女性が洋装をし始め、モガという言葉が流行った時代になっても、やはり、着物姿の女性がまだ、半数以上いた時代、それが、令和のアナログの存在を、象徴的に運命づけてもいようか。
 この洋装を、ためらうことなく実行できる女性の気質こそ、リスキリングに適応できる根本精神ではないか、若宮おばーちゃん気質と、睨んでもいる。
 
 食の観点から、話しを進めよう。
 
 よく行きつけの名店に毎週通い詰める客でも、毎回、お気に入りのメニューしか注文しない御仁がいる。パスタ店に行っても、決まって、ナポリタンかミートソースといった子供時代(?)から食べ慣れてものしか注文しない派、冒険しない派である。寿司の店に行っても、大将が「今日、いいネタが入ったんで、握りますか?」と薦められても、一向に、自身の好きなネタしか食しない派である。あの野茂英雄が、或る寿司の名店に初めて赴いた際、「トロ、ウニ、イクラ、トロ、ウニ、イクラ……」と頑なに、自身の好きなものしか注文しなかたエピソードを思い出す。これを、食の保守とでも言おうか、食のアナログ気質とも言うのか、私なんぞも、これに類する派である。この野茂英雄的気質の人間は、令和のリスキリングには不適応、心理的・生理的に拒否反応を示すものと思われる。
 
 ところで、平成後期だろうか、ノマドという言葉が、流行語にもなった。遊牧民から、援用した、仕事部族に適応させる用語でもある。この、ノマド族も、デジタルを武器に、フリーランスなどの自営業者に適応できるが、その、資質は、あくまでも、狩猟民族のものであり、縄文人的なものでもあり、個人商店の、頑固一徹の、農耕的・弥生的な、おやじの遺伝子とは異質のものでもあろうか?
 やはり、私見なのだが、このリスキリングを実行できる人間の遺伝子には、次の質問が、そのどちらに組みするかの、リトマス試験紙にもなっていうような気がしてならない。
 
 <質問>
 
  今、そこそこ満足でもあるアナログの仕事がある、これを、デジタル化すれば、年収100万も上昇する、あなた、プログラミングやC言語を、アフターファイブに、半年間学べるか、そうした学習に費やせるか?OK,進んでやります派、これが、リスキリング向きの資質である。こうした種族は、趣味はなし、とりたてて今の仕事に可もなく不可もなく、漫然と過ごしている人々でもあろうか?自己のDX化にどことなく明るい未来を思い描いているようでもある。転職にも、転勤にも、あまりためらうことなく踏み出せる気質を有してもいるようである。
 
 今のアナログの仕事が面白いし、居心地がいい、年収なんぞ100万増えなくても、いや、100万減ったとしても、従来のアナログの仕事を続けたい派、これが、リスキリング不向き派である。昭和の商人(あきんど)(だましい)職人(しょくにん)気質(かたぎ)とも通底している。これは、河野太郎デジタル大臣に言わせれば、絶滅危惧種とでもいわれようか。昭和の後半、電卓時代に、そろばんを使い続ける銀行員でもあろうか?
 
 こうした、対照的な二派は、以上で言及してきた、二分論からも気質上は、同じ傾向を示すのではないだろうか。後者は、ある意味、社会性・時代性の文脈で、絶滅危惧種となりかねない部族でもあり、その典型が、日本の仏教の僧侶たち、神社関係の神主たちである。デジタル貨幣となった近未来、初詣のお賽銭はなくなる、電子マネーで、明治神宮の、成田山新勝寺の、スキャン用電子柱(場外馬券場の券売機的なもの)が無数設置され、それで、“百円を投げ銭する”光景は、私には、想像できない滑稽さである。これ(賽銭の電子化・御布施や香典の電子化)が、アナログからデジタルへの、完全なる移行の踏み絵ともなるであろうか?
 
 「資格を取ると貧乏になります」、これを捩って、人生を守りに入る“スケベ根性”でいる者、また、一種の公務員的、社畜ならぬ、国畜・公畜的勤め人に成り下がる貧乏人根性の者は、リスキリングなんぞをやっても、自身のキャリアアップとは連動しないと断言できる。あ!そういえば、そうした人生の守旧派でもある公務員に、マイナンバー制度や行政のデジタル化を任せているから国のDXが失敗するである。それが、そもそも大きな要因でもあろうか?生の、仕事の充実感もない、無機質な日常を送る羽目となる種族でもある、彼らと同類の民間サラリーマンに告ぐ、「リスキリングをすると人生が空しくなります」、と。人間とは、有機体である、その有機体を、無機物に、社会的・会社的に変貌させるのが、リスキリングでもある。
 
 どうも我には、明治の近代化を揶揄した夏目漱石や大正・昭和の江戸情緒が無くなってゆく東京を嘆いた永井荷風の気質が、どうもあるようである。このように愚痴りたくなる気質も、我の“反デジタル考”資質に拠るもの大である。
 

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