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大学で学んだことを自身の"商品"にできるか?

 人は、生まれてきた時に、自身の将来の職業が決まっている者は、歌舞伎役者、名士の代々続く開業医、オーナー社長、この程度であろうか?あ!自民党の政治家も該当していたことを忘れていた。
 
次に、もの心の付いた小学生低学年が、淡い、純なる夢を描き始めるが、その夢も、中等教育の段階で微調整、また、方向転換を迫られるか、木っ端みじんに粉砕される。主観と客観、自身と現実との距離感を計算するからでもある。この厳しい現実を前に、自身も、一応は勉学の重要性に気づき、大学をめざすこととあいなる。
 
 こうしたルートではない部族は、親がレール敷く、もしくは、親によるフックによってアスリートや音大を目指す音楽家などくらいであろうか?親がスポーツ選手や音楽家が、まさしくこれである。
 当然、様々な個人商店、伝統ある中小企業なども、そのご子息は、親の背を見て継ぐケースは、とても多い。このケースは割愛する。
 
 では、中等教育で、英数国理社を猛勉強する派は、特に、理科系に限っていえば、視力0,5以下くらいであろうか、将来、メーカーか、研究者か、その理系科目の延長戦で、自身の職業は、目星をつけてもいる。特に、医学部などは、視力1,5のくっきりした青写真で、自身の医師の姿を思い描いてもいよう。だが、彼らとて、臨床か、研究か、外科か、内科か、そうした進路を大学の、だいたい、4年の中に決めてもいようかと思う。
 理科系の大学は、出席重視とされるのが、この行為が、実社会と結びついてもいるからだ。また、バイオ系の院生なら、将来、ソニーやパナソニックではなく、味の素や明治乳業を志望するのもその証左である。
 また、高卒で、専門学校に進む者も、将来、美容師、料理人、パティシエ、と将来像が、視力2,0で確定して、見えてもいよう。
 
 以上のように、手に職をもつ、言い換えると、大学であれ、専門学校であれ、何らかのスキルを学校で身に付けたものが、その技能なり、知識なりと職業がある意味直結する宿命を強いてもいるというのが教育というものの慣例でもある。
 では、これが、大学、それも文系学部に進んだものが、その4年間で、将来の職業とほぼ、連結するような末路を準備してくれているかとなると、心もとない現実が待ち構えてもいる。帆船で大海原に出航するようなものだ。風向きや海流など天候におおきく左右されもする。だから、特に文系学生の就職エントリーシートなるものの記載欄?に、昭和から平成初期には、聞き覚えのない<ガクチカ>という、学生時代に力をいれたものという、欧米の大学生では、異質な、風変わりなアピールポイントが登場してもくる。これは、大学の学んできたことが、学生選抜で、ほとんど用をなさない証拠である。
 
 例えば、文学部生で、全ての教科がオールA(優)の学生よりも、邦画と洋画を学生時代に、千本以上観ました、とか、新潮文庫や岩波文庫の8割を読破しました、更に、1年間無賃世界一周旅行をしました、そういった非アカデミックの経験こそが、理系とは別に、むしろ、大学なんぞ出なくても、また、肩書だけの学卒(成績オールC)の方が、断然、マスコミ系や出版社系では、武器ともなる。理系の学生とは、大いに違うところである。経済学部にしろ、法学部にしろ、そういう経済学や法学などには資質的には無理があるものは、興味薄にして、苦手ですらあるものは、少しでも有名なゼミに入り、その教授のお墨付きで大手有名企業に就職する。
 特に、人文科学系の就職など、まず、ゼミなど当てにはできない。芸大系の学生に近い運命にある。一方、社会科学系の就職は、従来通り、一応の良い成績を取り、有名ゼミに入り、その教授のご紹介に与かりながら、そこそこの会社に就職する。しかし、それは、自身のやりたい仕事、職種とは一般的に結びついてもいない。会社内に入ってから、自身の夢や目標を、社の人事評価と微調整しながら、見つけたり、変えたりもしてゆく。毎年東京ビッグサイトで開催される大手企業の就職説明会に出むく学生の殆んどは、「どこかいい会社なないかな?」「何かいい職種はないかな?」「どこか、掘り出し物のような、魅力的企業はないものか?」といったストレイシープならぬ、ストレイ就活生なのである。
 
 私が学生の頃、「結局は、大学4年生で、就活をして、就職する者は、大学時代に自身のやりたいことが見つからなかった者である。また、叶わなかった者である」という言葉を聞いた覚えがある。特に、青学の経営学部を中退した桑田佳祐や慶應の文学部を中退した竹内まりやといった有名ミュージシャンをもとに吐かれたことばだったように記憶している。また、大学生時代に弁護士になったもの、また、外交官試験(国家公務員一種)に合格したもの、こうした俊才を前提に吐かれたものでもあろうか?
 
 では、美大の油彩科や日本画科、音大の作曲科(坂本龍一・千住明)に入学したものたちは、学校の美術や音楽の先生になるために、わざわざ多浪までして、技能系の大学なんぞにはいったわけでもあるまい。その宿命は、ちょうど、大阪桐蔭や横浜高校の野球部に、スポーツ枠で入学した少年と同じものがあろうか?将来、プロ野球に進めるものがほんの一握りしかいないのは、藝大を出ても、画家や音楽家で飯を食っていくことが至難の業の運命であることに似てもいる。
 「このたび、藝大に入り、おめでとう。しかし、卒業後、自身の技量、絵を描いて飯を手べてゆけるのは、この中の一人だけだ」これは、日本画家平山郁夫が、藝大に入った際に、学長から聞かされた言葉であるそうだ。
 
 では、次の言葉は、このコラムをお読み下さっている方は、どう思うであろうか?自問していただいきたい。
 
 「僕、一番大変だったのが、どうやったら画家になれるのか、ぜんぜんわかんなかったんですよ。大学で教えてくれないんですよ。絵の売り方はどうやたらいいのか?どの画廊とつきあったらいいのか、これも教えてくれなかったです。だから、プロになってから業界が、教育がもっと変わらなければダメだということを言ってきたんですけど……」(中島健太:油彩画家)『先人たちの底力 知恵泉 渡辺崋山~人を愛するまなざし~』NHKより

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