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英検なるものの正体~誰も言わないから私が言う!~

 私の記憶が確かならば、昭和の時代に中等教育で学校英語なるものに馴染んできた、そうした過程を経てきた者が、雑駁に、粗削りに申しあげれば、中学校で英検3級、高校で英検2級を受験するという当世風の慣習(平成令和の英語の儀式)、そうしたものは皆無であった。これを、今の中高生に言うと、丁度、昭和のある頃まで、漫画『750ライダー』がヒットしていた頃、「昭和のある時期まで、大型バイク(ハーレーから原付まで)はノーヘルでもよかったんだよ」と告げた時と同様の驚きを現わすのである。今や、自転車にまでヘルメット!隔世の感がある。お笑いではないが、自転車にヘルメット、小学生に英検、これが時代の趨勢とでもいうのであろうか。
 
 予備校が、日陰者の存在から社会的に認知され、日向に出てきたバブル前後(スター講師が億の単位で報酬をもらっていた頃)、そして、三大予備校が、東進ハイスク―ルの台頭で、存在を脅かされ始めた頃、英検という存在が、日陰者から、資格試験としては認知され始めもした。センター試験のリスニングテスト導入(2006年)の前後である。
 
 都営バス(上野公園行)や国鉄(総武線:三鷹~津田沼間){※私が利用していた交通機関}などが頻繁にストライキをしていた時代、区立錦糸中学校の下町の秀才が、英検云々する光景など記憶にはない。また、県立石巻高校の国立志望の田舎の秀才からも英検なる言葉が吐かれた記憶も全くない。
 
 恐らくである。学校では、読み・書きができても、勿論、オーディオ器具やテープによる語学教材など、まだ高価だった時代でもあった。東京の下町や宮城県の湊町には、まず外国人など目につくこともなかった。そうした時代、学校英語のコアでもある英文法をもとに、読み・書きの修練は、高校受験や大学受験の関門をパスする武器として磨きをかける程度、また、それで十分でもあった時代である。勿論、現今見かける、“狂ったほどの超長文”など存在しなかった時代でもある。しかし、前向きに、特に、聞く学習、いわゆるリスニングの鍛錬や軽いスピーキングの演習なんぞは学校の場では、疎遠の領域、無縁の範疇、よって私などの昭和っ子には、英語の聞く・話す領域には、無関心でもあったことであろう。但し、その当時の宮城県立高校の入試の英語の科目にはリスニングがあった。でも、市販のテープ(オックスフォード出版のもの)くらいで耳を馴らせば、それで十分でもあった。
 子供も多く、大学を経て、大企業に進んだ者にみが、その後、営業や海外赴任などで必要に迫られ、話し・聞く能力を個人個人で高めてもいった時代でもある。
 
 時代は平成になる前後、英会話スクールのNOVAが象徴的である。そのNOVAがCMなどで大々的に台頭してもくる頃、恐らく、読み・書き・話し・聞くなどといた4技能が重要視、いや、教育界で意識されもするようになった。バブルが弾けた、失われた30年の初期でもある。話し・聞くなど、将来必要もない中学生や高校生までも巻き込んで(※本来なら話し・聞く技能は大学からで十分である)、使える英語といった文言が市民権を有し始める。<使える英語教>の出現である。今話題の、第一期<統一教会>問題とも時代的にシンクロする。キャンパスでは、原理研が、学生をリクルートしてもいた。
 
戦後の英会話ブーム、それが、またもや復活したかの如き呪文として、<英会話>という言葉が、社会人、大学生と、上から下の中高生へ舞い降りて、彼らに、憑依した。それが、平成初期でもあっただろうか。それに影響されたのか、オーディオ器具の進化なのか、センター試験で、平成中期(2006年)に、リスニングとして採用されもする。それと、並行するかのように、英検という存在も、モンスター化し始める。世を風靡し始める。英検協会の飛躍・躍進とセンター試験のリスニングテストの導入は、符号する、かぶってもくる。5級だの、4級だの、準~級だの、少しでも多くの受験生で金儲けをする、営業第一主義の英検協会がメジャーな存在として台頭することになる。英語検定協会が、私の目には、<実用英語“営利目的”宗教団体>に映ってしまう所以である。話は、逸れるが、最近経済アナリスト(獨協大学経済学部教授)の森永卓郎が、『ザイム真理教』という書を出して、財務省を、オウム真理教を捩って批判している。結構売れている。“その切り口(論拠)は、この<私の英検観>とも同じものだな~!”と苦笑いがこみ上げてもくる。
 
 さて、話を英検に絞る。今般、英検2級と準2級の間に、新たな級を設けることを協会は発表した。こうした路線は、2020年3月にJR東日本が、山手線内、品川と田町の間に、高輪ゲートウェイなる、唯一カタカナの、奇妙奇天烈な新駅を設けた方針とイメージでだぶってもきた。この高輪ゲートウェイなる新駅は、勿論、品川・田町間が比較的長い距離もあろうが、JR東日本の魂胆、商魂は、搭乗数の増加はもちろんだが、品川から田町間の、その周辺の地価の上昇と商業化といった目論見から、英検協会の、英検2級から準2級までの受験者数の増加といった、商売気質が透けても見える
 
 一般的に、小学生では、英検4級までお乗りいただく。中学生では、英検3級まで急行に乗車してもらう。そして、高校生には、英検2級の特急を乗ってもらう。丁度、この高校生ゾーンは、東海道新幹線(中等教育の後期課程)の、のぞみ(※2級とする)とこだま(※準2級とする)といったところでもあろう。そこに、ひかり(※その間の新たな級)という、“新たなダイヤ編成を組んだJR東海の方針”とも連想してしまう、見まがう方針である。利便者{利用者・受験者}の獲得である。交通の手段と英語の資格系の試験とは、意図や目的など当然違うが、利用者の利便性にかこつけた営業目的では同類でもある。英検を取得できれば、“英語ができる、使える”というお墨付けが世間的{親、先生、そして友人}にもらえるという学習者根性に付け入るうまい手法である。世には、情報処理系、財務・金融・会計、そして、医療・介護・福祉系など無数にあるが、私個人として言わせていただくならば、この英検とその実態・実力が、ものの見事に解離している資格系試験もない。“VUVAの時代は、学歴ではなく学び歴だ!”と近年ではよく耳にする文脈の根拠は、東大を出てもバカは馬鹿!早慶卒でも仕事で使えない奴は多々いる。MARCHを出ても、知的な一般常識すらも知らない名ばかり学卒、この期待を裏切る<有名大学卒と無能な社会人との関連性>の“開き”の差なんてもんじゃないのが、この<英検のタイトルホルダーと実際の英語の実力>なのである。こうした胡散臭い実力の乖離・格差といったものは、漢字検定、歴史検定、そして数学検定には、うかがえしれない、闇の側面、ブラック検定の正体でもある。
 
これに対する実態調査といったものを、是非、現場の中学・高校の先生方はやって欲しいものである。さすれば、英検がいかにバカバカしい検定試験であるか、文科省の庇の陰で見えなくなってもいる、薄暗い現場の中高生の英語教育現場の実態が、白日の下に晒されよう。かの有名なカリスマ教育者、麹町中学校の改革で名を馳せた、今や、横浜創英中学校・高等学校の理事長的校長を務められてもいる工藤勇一先生に、是非、自校の生徒にそれをやってもらいたいが、それをやれば、今度は、自校の英語教育の責任を問われかねない、自校に返ってもくるため、そこまでは、踏み込めない、実行不可能な難題でもあろう。一般論で言わせていただくと、世の中学高校の先生方が、中学生、高校生に向かて、「高校に上がるまで、最低でも英検準2級を取っておきなさい」とか、「高校卒業(高校3年の1学期くらい)までにできれば英検準1級と取っておくと、大学進学が楽ですよ」こうした言葉を吐く方針の“本音”は、英語教育の学校内での放棄を意味してもいる。自助努力の強要の裏返しの言葉でもある。
 
 「博士号とかけて、足裏についた飯粒と解く、その心は、とってもとらなくてもいいが、とらないと気持ちが悪い」という言葉があるそうだだが、それを捩って、周囲の、知り合いの中高生に、そして、我が教え子に、吐く言葉である。「英検とかけて、足裏についた飯粒と解く、その心は、とってもとらなくてもいいが、とらないと気持ちが悪い」高校生で2級などゲットするお金があれば、そのお金で親に高級焼き肉店や高級寿司店に連れていってもらえと、但し、英検準1級を、高校生のうちに取得すると親の前で宣言してからな!と釘を指す。それは、高校生で、英検準1級くらいをゲットしておくと、MARCH以上の大学の<英語の通行手形>になるから、高校3年までにはゲットしておいた方がいいよとアドヴァイスはしている。大学受験では、英検2級という高卒程度のタイトルでは、箸にも棒にも掛からぬ、小学6年生が、私立の中高一貫校、それも有名中学を受験する際に、「僕、英検4級を持っています!」と面接官にアピールする程度だぞと釘をさす。それを、彼らに話すと、一瞬、高校生の教え子たちは、“はっと”とした表情をする。英検の現実、実態を、直感的に知るからである。
 
これは実話である。浪人生がまだ、大勢いた時代である。某大手予備校で、某有名国語講師が、早慶選抜コースという百人以上もいる大教室内でのことである。「君たちは、早慶選抜コースという、テストを経て入ってこのクラスに在籍していることを、ちょっと誇らしげに思ってもいるようだが、さらに、来年、自分は早稲田か慶應に受かると思って、期待に胸膨らませてもいよう。だが、この百名以上の浪人生から早慶に合格する奴は、10人もいない!」と、その男性講師は、本音を口にした途端、その大教室は、水を打ったかのように、にこやかな表情が暗い深刻そうな顔つきに、そして、少々雑音のあったその教室が、シーンをなった光景を、今でも覚えている。現場に立ち会ってもいたから、この話は作り話ではない。英検も、TOEICも、それに似たり寄ったりである。
 
 弊塾のフォーマットをもとに、断定するが、英検なる存在は、学校では、リスニングやスピーキングなど手が回らない、よって、学校とグル、いや、文科省と手を組んで、中学生は英検3級を、高校生は英検2級を、それぞれ、プラスαの、課外授業の一貫、いや、夏休み中の宿題程度に、生徒各自に、<聞く・話す>というお勉強を義務付ける。社会と学校、そして家庭との三位一体の同調圧力として、機能、機能などしていない、しているとすれば、集金マシーンとしての権威としての<新興宗教>の如き機能である。浪人生が桁外れに多かった時代、大手予備校は、救われる(第一志望合格)という幻想を、ある意味抱かせる<新興宗教的教育機関>でもあった。
 
 統計学、エビデンス、これに基づいて、英検タイトルホルダーと実社会での、仕事で英語を使用している者の関連性を、大学の教育学部の先生あたりが調査していただきたいものだ。そこまですると、英検の存在理由が、ゆらぐ、否定される、だからしないのでもあろう。
 サッカー(西語・独語)やラグビー(英語)、卓球(中国語)、こうしたアスリートたちが、果たして、スペイン語検定、ドイツ語検定、中国語検定なるものを有して、使えるようになったのかどうか?その語学の、使える、いや使う言語と、その習得プロセスといった事柄に関して、もっと知りたい方は、弊著『英語教師は<英語>ができなくてもいい!』(静人舎)を是非、お読み頂くと、英語教育・英語学習・英語教師・英語を学ぶ生徒、そうしたもの事情なり、状況、つまりは、実態なりがはっきり見えてくるであろう
 
世の中高生が、将来の目的や仕事すらも曖昧な段階で、果たして、使える英語なるものが身につくのかといった命題は、社会人のTOEICに十分突きつけてもいいテーマである。英語教師が、そもそも、英語を使う現場にいるのか、実際に使う必要があるのか、そういった問いかけから英検問題も、弊著はハッキリとシルエットを現わしてもくれる。

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