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英文法と古典文法は同じと弁えるべし

 教え子のS君に中学1年から英語を教えていて、つくづく実感したことがある。いや、日ごろの、語学上の仮説、そして、私自身の経験を、ものの見事に証明してもくれた実例である。
 
 そのS君は、今、高校2年である。神奈川の中高一貫の男子進学校に通ってもいる、成績も良い、サッカー少年でもある。
 このS君、英語はできる。努力型というより、英語のセンスの良さ{※地頭のよさも加味して}が英語の成績を維持せしめているタイプである。小学校低学年時代、ベルリッツの子ども英語教室に通ってもいたこともあり、中学1年での入塾時点から、その貯金(英語のストック)か、そこで育まてたかのか、生来のセンスの良さか、恐らくその両方でもあろうが、私の教える英文法の知識は、自身の頭の中の英語の表現・体系と結びつけるかのように、ちゃくちゃくと伸びていって今に至る。ノートは取るが、あまりきれいではない。英語に関しては、自宅でもあまり復習はしていないであろうことも容易に想像がつく。事実、そうであった。弊塾で習ったことを、学校の週5~6時間の授業で復習(追体験)して、定着させてきた嫌いがないでもない。「学校の定期試験なんて、やったことを覚えていけば点数が取れる」と口にすることからも、IQも高いと推察される。因に、脳科学者の中野信子も似たような言葉を吐いていた。「信子、よく満点が取れるわね」「だって、学校のテストなんて、やったこと、教科書を覚えればいいだけでしょう?」このように友人に語って、周囲の顰蹙を買ったという天才少女だったようだ。
 
 ところで、このS君、数学もさほど苦手ではない。親は、医学部に言って欲しいそうだが、彼は、理系には興味なし。文系に進みたいようである。お母様の希望としては、国立旧7帝大くらいには進んでほしいようである。親戚のいる(?)関西の大阪大あたりを目指している模様である。
 
 3教室の全ての生徒を土曜日に蒔田教室に集めて一同に古文の授業を行ってもいるのだが、このS君、訳あって、その古文の授業の後の英語のクラスに出席する予定が、1時間早く来てしまい、たまたま。古文の授業に出席させた。そこで驚いたことに、そのS君、古文、その古典文法がまるっきりできてない。そこで、「高2だけど、古典文法は、きちんと覚えてきたのかい?」と訊いたところ、「全く、やっていないです」と応えてきた。
 
 S君の英語というものに、私が教授する英文法の知識は、半分程度しか、いや、半分以下かもしれないが、活用してこなかったという実体が判明した。あとの半分は小学校時代から培われてきた、英語のセンスで、英語を読んだり、英語問題を解いたりしもきたことを実感した。はっきりと言えば、高校2年で英語ができても、その三分の二は、小学校のフィーリング英語でなんとか持ち堪えてきたが、私の教えた英文法の体系は、三分の一程度の武器にしかなっていなかったことが判明したのである。もう、4年以上彼に英語を教えてきた経験から、あまり、緻密に、分析的に、理詰めで、文法に則り英文に接してはこなかったことは、うすうす分かってもいたが、そうした指導は、授業後の復習や本人の自覚によるものなので、余り口うるさく指導はしてこなかった彼は、よく、学校の教科書で、曖昧な所を、鋭い質問をしてくる。そして、その箇所を説明してあげると、「ああ、そういうことですか、分かりました!」と応じる殊勝な面はある。内発的に疑問が湧くと、英文法でも死角・盲点なる箇所が気になる性格でもあるらしい。一方それに対して、外発的に、参考書などで記載されてもいない英文法の本質を教授してあげても、余り、頭に残らない、少々天然、ある意味、“学習障害的”なくらい、もの忘れがひどい面を有する少年ではある、不思議なタイプだ。
 
 高校2年の後半ともなる時期に、古文の助動詞の基本が全くなっていない。「古典文法は、英文法と同じだよ」といったところ、「そうですか」応じてもきた。「来年度は、センター北教室で、古文の授業をやるかもしれないから、その時、必ず出ろよな!」といって、激励した。
 
 古文という科目は、日本語でありながら、現代日本語より、むしろ、英語に、学ぶ上で親和性があると断言できる。それは、文法を確立していなければ、精確に、古文を読み込めないという事実は、ちょうど、英文法をしっかりと習得しなければ、高度な英文、大学入試レベルの英文は、緻密に読み込めない真実と同じものがある。アメリカンスク―ル出身者や帰国子女で英語が得意な者は例外である。ほぼ、中学1年から英語を学ぶ者にとってと同様に、母語として日本語が確立してしまった15~6才の少年少女が古文を学ぶ、本格的に読み始めるのとは同じ、母語の古典、外国語を問わず(洋の東西を問わず)、≪文法≫という関所は避けては通れないのである。昭和の時代に浪人をして、駿台予備校にお世話になった身の上で申しあげれば、ここの英語科と古文科で、≪真の文法≫という事実に刮目させられた経験が、今の私の仕事に生きてもいる。そして、以上の仮説ともなっている。
 
 そのS君は、古典文法を、ちょうど、英文法の様々な項目を学んだルートとほぼ同じルートで学ばなけばならいという事実を忘れている。≪正規の文法≫をないがしろにしてきたつけが回ってきた模様である。
 
 古文の助動詞を分類し、識別し、意味を了解し、訳し分ける。また、用言(動詞・形容詞・形容動詞)・助動詞と助詞との兼ね合いで、どう訳すか、それは、ある意味、英語の法助動詞(will/can/must/may)を征服する、学習ルートより、より困難な側面があるやもしれい。
 
これが、S君のように、英語のセンスがある者なら、英文法を適当にやってきても、まあ、それほど支障はないかもしれないが、源氏物語や和歌の世界では、古文のセンスなどというものは、明治・大正時代(身近に古典が偏在していた時代)ならいざ知らず、平成・令和ともなった今では、まず存在しない。古文は、古典文法の“武器・シェルパ”がなければ、その高峰が踏破できないのは、なまじっか英文法など知らなくても、多読や音読といった、“習うより慣れろ”方式でなんとかなると考えていて、限界を認識する未熟者の学びのスタイルと同義でもある。事実、英語が、‘現代のラテン語’、即ち、世界で日常使用されてもいる。日常生活の中で、否が応でも耳にする、目にする言語であることも、英文法軽視のメンタルへ誘う悪しき遠因でもある。
 
 このS君の事例からわかることは、英語が得意でも、古文が苦手という生徒は、恐らく、英語を習うより慣れろ流に習得してきて、英文法を軽視している生徒、それでいて、古典文法は、はなから、きちんと覚えようとしない生徒である。もしくは、英文法は精進しながらも、その熱意で、古典文法に向き合わない生徒である。
大方、このように分析もできようかと思う。勿論、学校で、塾ですばらしい英語の講師・教師に恵まれながらも、古文に関していうと、国語教師のハズレのケース、古文の授業が不運なケースも勿論ある。しかし、今回は、英文法と古典文法が真の読解という側面で、根っこは繋がってもいるという≪文法の本質≫を言いたかったまでである。(つづく)

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