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コラム
鈍感力と敏感力
一昔前(2007年頃)、鈍感力という言葉が流行した。作家渡辺淳一のエッセイ『鈍感力』がベストセラーになり、当時の退任したての、まだ人気冷めやらぬ元首相小泉純一郎が、口にして、そのブームに拍車をかけた。
そのブームの前だか、後だかは記憶にないが、当時楽天イーグスの監督をしていた野村克也が、自身の著書のなかで「人間の最大の悪とは何か。それは鈍感である」という言葉を吐かれていたことを目にした。
この流行作家と名監督の、相反する主張、これぞ言説とも呼ぼうか、そのどちらに軍配が上がるかは、超格差社会の令和の今日、自明の理である。
小泉・竹中コンビにより、現今の日本の貧富の格差が生まれたともいう。いわゆる、小泉構造改革でのグローバル化である。超富裕層が1割、貧困層が6割、そして従来の5割前後いた中間層が3割ともなった元凶である。
昭和から平成を経て、令和に至る地上波のコンプライアンス、放送コードの厳しさとその視聴率は反比例する。今や、セクハラ、パワハラなど、その仕事場での空気が読めなければ訴えられかねない時代である。LGBTQは言わずもがなである。その一方、SNS社会での誹謗中傷、また、学校での不登校や引きこもりなど、社会問題化する事象は数えきれないほどある。
前者は敏感力、後者は鈍感力の負の側面が膨大化、モンスター化してもいる象徴でもあろうか。
野村の言う「鈍感とは悪である」~現在の岸田首相もその最たるもの~とは、それを断罪する言葉としては、古めかしいもので、惻隠の情があげられようか。古今を通しては、弱者への目線、心配り、現代では、社会的セイフティーネットワークからベイシックインカムに至るまで、社会性に依拠する敏感力がコアともなっている慣習的社会的配慮といったものである。こうした時代的文脈からは、鈍感力は、確かに“悪=世間の非常識”になりつつある。
この死語になりつつあるが、この鈍感力を武器、実は緻密な計算の上のもとという但し書きを添えて言わせてもらえば、それを身にまといSNS社会で支持を集めてもいるのが、ホリエモンやひろゆきであろうか。一見非常識にも思える、極論的言説を吐くのは、時代そのものが、従来の感覚では、非常識極まりないものになりつつあるが故に、それ以上に個人は超非常識であれという逆説にも近い発言とも捉えられる。好意的にいわせてもらえば、<クールな中のあたたかさ>といったところだろうか。
政治の範疇でいえば、鈍感力で内閣が終わったのが、麻生太郎{祖父の吉田茂も“馬鹿野郎解散”などした点で隔世遺伝でもあろうか、でも、その畏祖父は、時代もあろうが、その鈍感力でマッカーサーと渡り合えたのだ}でもあろう。一方、非鈍感力、いわゆる、敏感力{健康上に理由もあるとされるが、その持病も敏感力が大いに左右していたと考えられる。その証拠にコロナ禍で、本当は更に首相をやりたいが、にっちもさっちもいかなくなると、ストレスから、そして自身の敏感力から持病が発症することは、前回の第一次内閣で、参院選でぼろ負けし、政治を思い通り行えなくなったストレスから政権放棄と同類行動である}で、政権を放棄したのが第一次安倍晋三内閣である。
この麻生内閣や第一次安倍内閣では、鈍感力の有無が、それぞれ悲劇を招いた実例である。では、小泉純一郎はどうであろうか?あの長期政権は、彼自身が、アピールする鈍感力によるものであっただろうか?否である。敏感力という、心的配慮なる目配せがなければ、長期政権など叶わなかったはずである。それでは、どう説明するか。まだ、40代後半の安倍晋三には、鈍感力という鎧を身に付けずに、内閣という布陣を引いた。それに対して、麻生太郎は、鈍感力という鎧は身にまといながら、戦術・戦力もなく、周囲への配慮もなく、政争の布陣に臨んだがゆえ、つまり、大将の鎧を百姓の足軽に着せ、陣頭を取らせたようなものである。これこそが、「鈍感は悪である」言い換えると「バカな大将、敵より怖い」とも通じる人性論的真理ともいえる実態である。
小泉は、田中真紀子曰く、“変人”でもある。それは、傍から見た、政治家の目線を通じた感想であり、まさしく、永田町族には、空気読めない変人とも映る根拠であるが、その変人の様相は、実はこの鈍感力が、そう見せているに違いない。その鎧を身にまとい、政治家は近寄りがたいのだ。赤坂の高級料亭で派閥の領袖と酒を飲むより、独りでオペラを観て、クラッシックを聴く。Xジャパンの歌を愛し、プレスリーを口ずさむ、不良中年の容貌からはうかがい知れない、感受性というものを垣間見えないだろうか、但し、知性というものは怪しい!?それが、鈍感力という鎧の内側に秘めた、“楽観的”敏感力ともいっていい側面である。恐らく、50代後半の安倍晋三は、冷や飯時代に、この人生の真実を痛いほど実感してもいたのでもあろう。話はとぶが、長期安倍政権に記録を敗られる前の、第一位の桂太郎内閣のその源が、長州閥でありながらも、明治天皇に慕われた、人たらし、いわば、気くばせが、敏感力であり、それがもとで、第一次護憲運動後に、まもなく胃癌がもとで死ぬ、でも、“積極的”鈍感力で、あの日露戦争に反対する、超慎重派の伊藤博文を振り切って、突入してもゆく。
特に、政治の世界は、古今を眺めても、太閤秀吉は、この敏感力と鈍感力で、天下を取った。しかし、大阪城を築くや、前者が埋もれてもゆく、耄碌とやらかもしれぬ、豊臣家は滅亡する。今太閤こと、田中角栄も、総理大臣の椅子につくまでは、見事に、敏感力と鈍感力が武器ともなり、行動力もあった。しかし、秀吉に似て、晩年は、敏感力以上に鈍感力が勝った、そして、驕りとやらかもしれぬが、小菅刑務所送りともなる。この微妙な、匙加減を、塩梅を忘れて客が離れても行く名店でもあろうか、それを、教訓に、人たらし居士竹下登が、敏感力という心配りで下剋上するのは有名な政治的エピソードである。
家庭における父と母、その両方が巧いさじ加減だと、その家庭もうまくゆく、幸せである。子どもはまっとうに、良く育つ。どちらかに、パワーシフトすると、家庭内では、不和を生じる。これと同じである。人間個人の内面には、この生の、肉体の皮膚感覚ともいっていい敏感力というものがある。そして、それを外面から保護する、鎧という、その鈍感力というものがなければ、社会は、世間は、家庭は、そして、一個人の人生は、思い通りには進んではゆかぬものである。
ここで、この鈍感力というものが、どうも、近年、デジタル化社会というものの台頭が遠因かも知れぬが、ものごとを習得(勉強からスポーツに至る学びという行為)する際に、楽しみながらやりましょう、面白く学びましょう、わかりやすさを第一に、そういった風潮が、先般、話題にもなった、甲子園球児の、慶應高校優勝で、話題、注目を集めた、“Enjoy Baseball”と鈍感力で繋がってもいるようで仕方がないのである。
『わかりやすさの罠』(武田砂鉄)や『わかりやすさの罪』(池上彰)、そして、『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(レジー)といった文脈からの、“enjoy”限界論、大人における“enjoy”否定論とやらが学びにおける鈍感力と暗に批判している。それを次回語ってみたい。
先に結論を言おう、 “わかりやすさとは、enjoyのことである!”“enjoyでは、教養は身につかぬ!”と。(つづく)
そのブームの前だか、後だかは記憶にないが、当時楽天イーグスの監督をしていた野村克也が、自身の著書のなかで「人間の最大の悪とは何か。それは鈍感である」という言葉を吐かれていたことを目にした。
この流行作家と名監督の、相反する主張、これぞ言説とも呼ぼうか、そのどちらに軍配が上がるかは、超格差社会の令和の今日、自明の理である。
小泉・竹中コンビにより、現今の日本の貧富の格差が生まれたともいう。いわゆる、小泉構造改革でのグローバル化である。超富裕層が1割、貧困層が6割、そして従来の5割前後いた中間層が3割ともなった元凶である。
昭和から平成を経て、令和に至る地上波のコンプライアンス、放送コードの厳しさとその視聴率は反比例する。今や、セクハラ、パワハラなど、その仕事場での空気が読めなければ訴えられかねない時代である。LGBTQは言わずもがなである。その一方、SNS社会での誹謗中傷、また、学校での不登校や引きこもりなど、社会問題化する事象は数えきれないほどある。
前者は敏感力、後者は鈍感力の負の側面が膨大化、モンスター化してもいる象徴でもあろうか。
野村の言う「鈍感とは悪である」~現在の岸田首相もその最たるもの~とは、それを断罪する言葉としては、古めかしいもので、惻隠の情があげられようか。古今を通しては、弱者への目線、心配り、現代では、社会的セイフティーネットワークからベイシックインカムに至るまで、社会性に依拠する敏感力がコアともなっている慣習的社会的配慮といったものである。こうした時代的文脈からは、鈍感力は、確かに“悪=世間の非常識”になりつつある。
この死語になりつつあるが、この鈍感力を武器、実は緻密な計算の上のもとという但し書きを添えて言わせてもらえば、それを身にまといSNS社会で支持を集めてもいるのが、ホリエモンやひろゆきであろうか。一見非常識にも思える、極論的言説を吐くのは、時代そのものが、従来の感覚では、非常識極まりないものになりつつあるが故に、それ以上に個人は超非常識であれという逆説にも近い発言とも捉えられる。好意的にいわせてもらえば、<クールな中のあたたかさ>といったところだろうか。
政治の範疇でいえば、鈍感力で内閣が終わったのが、麻生太郎{祖父の吉田茂も“馬鹿野郎解散”などした点で隔世遺伝でもあろうか、でも、その畏祖父は、時代もあろうが、その鈍感力でマッカーサーと渡り合えたのだ}でもあろう。一方、非鈍感力、いわゆる、敏感力{健康上に理由もあるとされるが、その持病も敏感力が大いに左右していたと考えられる。その証拠にコロナ禍で、本当は更に首相をやりたいが、にっちもさっちもいかなくなると、ストレスから、そして自身の敏感力から持病が発症することは、前回の第一次内閣で、参院選でぼろ負けし、政治を思い通り行えなくなったストレスから政権放棄と同類行動である}で、政権を放棄したのが第一次安倍晋三内閣である。
この麻生内閣や第一次安倍内閣では、鈍感力の有無が、それぞれ悲劇を招いた実例である。では、小泉純一郎はどうであろうか?あの長期政権は、彼自身が、アピールする鈍感力によるものであっただろうか?否である。敏感力という、心的配慮なる目配せがなければ、長期政権など叶わなかったはずである。それでは、どう説明するか。まだ、40代後半の安倍晋三には、鈍感力という鎧を身に付けずに、内閣という布陣を引いた。それに対して、麻生太郎は、鈍感力という鎧は身にまといながら、戦術・戦力もなく、周囲への配慮もなく、政争の布陣に臨んだがゆえ、つまり、大将の鎧を百姓の足軽に着せ、陣頭を取らせたようなものである。これこそが、「鈍感は悪である」言い換えると「バカな大将、敵より怖い」とも通じる人性論的真理ともいえる実態である。
小泉は、田中真紀子曰く、“変人”でもある。それは、傍から見た、政治家の目線を通じた感想であり、まさしく、永田町族には、空気読めない変人とも映る根拠であるが、その変人の様相は、実はこの鈍感力が、そう見せているに違いない。その鎧を身にまとい、政治家は近寄りがたいのだ。赤坂の高級料亭で派閥の領袖と酒を飲むより、独りでオペラを観て、クラッシックを聴く。Xジャパンの歌を愛し、プレスリーを口ずさむ、不良中年の容貌からはうかがい知れない、感受性というものを垣間見えないだろうか、但し、知性というものは怪しい!?それが、鈍感力という鎧の内側に秘めた、“楽観的”敏感力ともいっていい側面である。恐らく、50代後半の安倍晋三は、冷や飯時代に、この人生の真実を痛いほど実感してもいたのでもあろう。話はとぶが、長期安倍政権に記録を敗られる前の、第一位の桂太郎内閣のその源が、長州閥でありながらも、明治天皇に慕われた、人たらし、いわば、気くばせが、敏感力であり、それがもとで、第一次護憲運動後に、まもなく胃癌がもとで死ぬ、でも、“積極的”鈍感力で、あの日露戦争に反対する、超慎重派の伊藤博文を振り切って、突入してもゆく。
特に、政治の世界は、古今を眺めても、太閤秀吉は、この敏感力と鈍感力で、天下を取った。しかし、大阪城を築くや、前者が埋もれてもゆく、耄碌とやらかもしれぬ、豊臣家は滅亡する。今太閤こと、田中角栄も、総理大臣の椅子につくまでは、見事に、敏感力と鈍感力が武器ともなり、行動力もあった。しかし、秀吉に似て、晩年は、敏感力以上に鈍感力が勝った、そして、驕りとやらかもしれぬが、小菅刑務所送りともなる。この微妙な、匙加減を、塩梅を忘れて客が離れても行く名店でもあろうか、それを、教訓に、人たらし居士竹下登が、敏感力という心配りで下剋上するのは有名な政治的エピソードである。
家庭における父と母、その両方が巧いさじ加減だと、その家庭もうまくゆく、幸せである。子どもはまっとうに、良く育つ。どちらかに、パワーシフトすると、家庭内では、不和を生じる。これと同じである。人間個人の内面には、この生の、肉体の皮膚感覚ともいっていい敏感力というものがある。そして、それを外面から保護する、鎧という、その鈍感力というものがなければ、社会は、世間は、家庭は、そして、一個人の人生は、思い通りには進んではゆかぬものである。
ここで、この鈍感力というものが、どうも、近年、デジタル化社会というものの台頭が遠因かも知れぬが、ものごとを習得(勉強からスポーツに至る学びという行為)する際に、楽しみながらやりましょう、面白く学びましょう、わかりやすさを第一に、そういった風潮が、先般、話題にもなった、甲子園球児の、慶應高校優勝で、話題、注目を集めた、“Enjoy Baseball”と鈍感力で繋がってもいるようで仕方がないのである。
『わかりやすさの罠』(武田砂鉄)や『わかりやすさの罪』(池上彰)、そして、『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(レジー)といった文脈からの、“enjoy”限界論、大人における“enjoy”否定論とやらが学びにおける鈍感力と暗に批判している。それを次回語ってみたい。
先に結論を言おう、 “わかりやすさとは、enjoyのことである!”“enjoyでは、教養は身につかぬ!”と。(つづく)
2023年11月13日 16:53