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罪なる哉!英検の罠

 公立の小学生で進学塾に通い、有名私立中学に入学する。その後、半数弱の生徒は、中学時代の中だるみ期間に入る。あくまでも、一般論だ!成績が急降下する。学業のスランプ、もしくは、やる気の低下、更には、目標の喪失とやらが原因で、成績がいまいち伸び悩む。そうした母集団から一歩踏み出し、抜け出す生徒は、新たな目標、勉強スタイルが見つかった、あるいは、その新教科の、将来的意義を自覚した連中である。数学や英語など中等教育で出会った新たなる科目への克服の仕方を見つけた生徒でもある。一方で、当然ながら、勉学にそもそも向き合う動機が芽生えず、無気力に高校へ進むものもいよう。
 
 中高一貫校、あるいは、公立の高校から、有名大学へ、自己の志望通りに進んだ大学生が、これも一般論だが、半数以上は、勉学が二の次になる現実は、昭和から令和にかけて、大方あまり変化はない。何等かの変化があるとすれば、それは、現代の大学生の資質が原因なのではなく、高等教育が、高校化したに過ぎない。大学の高校化により、勉強しているように見えるのである。また、大学の専門学校化とすら言える現象である。出欠や課題など、多くが学生の自主性という内発力によるものより外発力による、一種やらざるを得ない制度的現実がそうもそうもさせているようだ。教養より実学へ、勉学より勉強へ、そういったら学びの趨勢とも言いえようか。
 
 初等教育(小学校)から中等教育(中高)へ、中等教育から高等教育(大学)へ、それぞれ日本の若者が、教育制度上のステップアップをする際に、入試・受験というハードルがある、学びにおける“イニシエーション”ともいえるものだ。また、中学や高校でも学校内の定期テスト(中間・期末)なる存在があるから、外発的に猛勉強する気質が保たれているのは、これは、致し方ない。それとは別に、卒業資格を得るためという表面的動機付けというものが、その教科の実力の苗付けに過ぎないことは自明の理である。その後、これを育てるか否かは、自己の、自宅での自助努力にかかってもいる。その苗付けがいい加減な生徒、また、その後の育成の手間が億劫な生徒は、放課後に塾や予備校に足を向ける。
 
 学校内の定期テストにしろ、外部のステプアップするための入試というハードル、こうした体制側の関所あるいは、通過地点標識が、そもそもないと、日本の中高生は、本格的に勉強しない実体は、現場教師のみならず家庭内の父母たちにも強烈に認識されていることである。
 こうした点で、よく理想主義者の教師が、学校から英語を排除してしまえとか、脳科学者の茂木健一郎が、塾不要論やTOEIC不要論を唱える姿勢は、現日本の教育風土を考慮した時、非現実的にして、理想論すぎるといわざるをえない。生まれながらにしての超美人が、美容整形不要論・美容サロン不要論を唱えるに等しい、勝ち組の戯言でもある。
 
 ここで、本題に入るとしょう。日本の初等教育(5級から4級)から中等教育(3級から2級)における英検の三大意義とその立ち位置というものである。
 今では、立教大学が典型的だが、大学入試の英語の科目に関して英検を必須とする、あるいは、代替させるところが澎湃と出現してきている。また、公立では、中三までに英検3級を、私立では、中三までに最低準2級を取得しておくように指導しているところが大半である。こうした指導は、実は、「学校の授業以外に、資格系問題集なりを購入し、英語の勉強に励んでくださいよ」というメッセージでもある。学校の英語の授業では、昭和から平成へ、平成から令和にかけて、現場の教室内では、重要度が低下、生徒の内面の文法需要度が希薄ともなっていった。現場の英語授業は、とりわけ、中学では、トラベル英会話に毛の生えたものになれ下がった。「まちがってもいい、勇気をもって、しゃべりましょう」中学英語は、ビジン英語になれ下がった。読み・書き英語軽視のメンタルで、高校へ進むも、その負の学習上の遺産(英文法の欠陥)が尾を引いて、英語が伸び悩む。こうした、英語の負け組に限り、見栄っ張りというか、見たくれ英語力でもいいから、“張り子の英文法”でも構わないか、英文法の“2級建築士”の資格しかない者が、タワーマンションやレインボーブリッジなどの設計を手掛けはじめる。まともな、ハイレベルの建造物など築くことなどできはしない。
 
 では、この英検への向き合い方の、真の中高生の深層心理について語ってみよう。この視点、現場の中高の先生方は、ご存じない、いや、知っていても敢えて目をふさいでみないふりをしている、認識しないようの感じている状況が私にはひしひしと感じられるのである。
 
 ここで社会人における健康診断の存在意義というものを挙げてみよう。
 
 この健康診断なるものは、日ごろの生活習慣が身体に良くないことを行っている、よって生活習慣病を感知し、発見し、その対策、糖尿病などを回避、軽減させようという動機付けにもなっているのが通例、自身の健康管理の発見バロメーターでもある。そこからから判明する数値を、できるだけ改善しようとするきっかけともなるものである。
 この健康診断を、毎月ではないにしろ、年に二回ほど行っている中年サラリーマンは、次回の数値改善を目標に、食習慣改善や運動・ウォーキングなどを意識して行うものである。
 
 英検なる存在は、本来この健康診断的立ち位置のものであるのが本義でもあるかと存ずるが、この英検なる資格系試験は、今や、税理士資格、管理栄養士資格、宅建資格などを通りすぎ、自動車の運転免許証以下の存在になれ下がったといってもいい。その理由は、明々白々である。この英検という資格系試験は、その級の試験をパスしたればこそ、それに見合う実力を形なりにお墨付きをもらえたと公的に認証されるからだ。ここで、中学生は、高校生は、錯覚を起こす。“ああ、私は、文科省認定の義務教育レベルの英語は身についている”、高卒程度の英語は、身についているという制度上の、その個人の内面にレッテルが張られるからだ。これが、学びの慢心の源である。実際のところ、この~級なんぞを手にしても、それに見合った実力は遥か、遠き先の先でもある。この合格証書をもらいながらも、深層心理、いや、密かな恥じらいの意識が、尾を引いている、忸怩たる思いをしている高校生{※こうした高校は少ない!持っていれば殊勝である!}が、大半であるのが、現実なのである。王様は裸だ!本当は、英語ができないにもかかわらず、<透明の衣装=英検のタイトル>を着せられながらも、その実力に見合わない合格証書をもらいながら、内心、恥ずかしい自覚、本当は、英語に自信のないコンプレックスなのだが、それを有しながら、大学生になってゆくのである。こうした高校生は、高等教育に進むや、<英語の骨粗鬆症>ともなり、ポッキンをあいなる。あらゆる資格系試験で、合格後、全くその能力を確認、鍛錬、そして向上させるチャンスが全くないものが、この英検でもあるからだ。取得してしまえば、それで終わり、ただそれだけの資格系試験でもある。
 
 巷では、有名なる言説でもあるのだが、日本の大学生は、大学に入学した時点が、その人の人生最高、マックスの英語力がある時である、と。これは、受験で、必死に、あの難解な受験英語を読む訓練をしてきた、その英語実力道の峠にいる段階である。その後、その大学生は、英語やる目的、意義を見失い、英語を自助努力でやらなくなってしまう。大学入学後も、英語が伸びる生徒は、社会人になっても英語を使うであろうとか、英語を就活で武器に使用といった動機付けのある者は、高校から大学への英語力のステップアップにそこそこ成功する。大学の授業を踏み台に、プライベートで研鑽に励むからでもある。
 
 大方の、中高生の英検合格者は、その級に合格すると、その目的イコールその級の取得イコール社会的・学校的文脈で英語実力承認を得た、そう錯覚し、その級に恥じないような自己研鑽に励まなくなってしまうのである。一般の高校生に言えることだが、こうした<うわべだけの英語学習=英検合格のための勉強>は、せいぜい英検2級(高卒程度)が限度でもある。大方、次の英検準1級、このハードルがなかなかクリアーしない。先ほども例に出したが、立教大学の英語の合格基準なるものは、公表上は2級以上となっている。しかし、この2級合格程度では、到底、文系学科は合格など夢のまた夢である。この立教大学は、高卒程度の2級ではダメですよ、というメッセージは、丁度、公立小学校程度の算数の実力では、名だたる私立中高一貫校など合格できない現実と類比してもいよう。ここに、英検のその級の実力と齟齬、解離という見えない壁がある。
 
 健康診断のための良い数値を目標に日ごろの生活習慣をする。確かに、悪くはない、間違った行為ではない。これでは、ボディービル・コンテストで優勝するための食生活と筋トレをするようになってしまう。あるいは、プロボクサーの階級維持のための、プロのモデルの体形維持のための、カロリー制限の、味も素っ気もない食生活を余儀なくされる日常と同じでもあろう。いや、このように、起きてから寝るまで、英語英語のイングリシュモンスターのような輩もいよう。しかし、世の中を生き抜くスキルは英語だけではない、英語以外に何の取り柄もないない、武器となるスキルなど持っていない者に限り、英語のスキルにすがろうとする。それなら留学すればいいだけの話だ。英語以外の目的で留学するならまだしも、英語のための英語留学は、高校生から大学生までである。社会人ともなれば、そんな余裕もないし、無駄とでまでは言わないが、中年になって東大合格の猛勉強をするようなものである。
 
 英検の最大の罪・罠とは、それに合格してしまえばそれでおしまい!その後、それを現実に試す機会というものがほとんど存在しないことが、英検無意味論の根拠である。これは、日本の英語風土の縮図である。日本国内で、そもそも英語なしでも生活できる状況から、英語ができない日本人を生んでいるのと同様である。ちょうど、日本の高校生が大学に入れば、それで安心、適当に、その学部の単位を取得して、高校時代の英数国理社に注いだエネルギーの半分も要せずに卒業できるという安楽なる、極楽とんぼ的メンタルになってしまう、させてしまうこと、それと英検の存立基盤は同じに存する。それは、英語検定協会の罪ではない、我々、いや、学生の意識、自覚の問題である。ここに、学びの自由の罠ある。芸術上の真理でもあるが、制約のなかからどう作品をつくるのか、むしろ、作曲期限(締め切り)があるから、映画やドラマとタイアップしているから、名曲が生まれる如く、なんでもいい、自由にいい曲を書いてくださいと言われた作曲家は、ベートーベンなどの天才を除いて、名曲など書けないものである。英語の勉強も、英検合格、入試の勉強も、大学合格、その後、どれだけ自助努力を怠らないか、それにかかっている。学びにおける、英検合格からの解放からの自由の罠にかかってはいけない。
 

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