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英検が英語を学ぶ姿勢を慢心にしている

 「役(役職)が人を作る」という謂いがあります。まだ、若い、未熟だ、といった組織内での予想、思惑を外し、いざその役職に就いたら、大化けする人間に関しての社会的通説とでもいうものです。その組織内で力不足と周囲の目に映る人材が、そのポストに就くや役不足と感じられるほど豹変するケースとも言える。
 
 これは、スポーツにおける主将(キャプテン)から、会社の課長まで、そして、落語界の真打昇進にまで適用できる、上の者が心得ておくべき人材マネジメントの組織論の定説ともなっているものである。もちろん、その上司が、部下の本質を見抜き、信頼のもとにそのポストを当てるという前段階も必要です。
 
 「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」(山本五十六)
 
 大方の政治家は、衆議院議員や参議院議員になっても、それに見合う能力や資質はないというのが悲しいかな、現実ではあります。当然、国会議員になって、予想以上の働きを見せる、豹変する人物もいます。惜しむべくは、“~大臣”になった政治家です。それに見合った働きをする人間は皆無ですらあります。「役職が人を作る」の逆パターンの典型であります。これを力不足という。
 
 平成後半に、最もチケットが取れないとされた立川流一門の落語家たち、談春や志らくなどは、確かに名人芸の一歩手前まできてはいるが、その域には、惜しむらくは、達してはいない。彼らは、大器晩成的に一躍脚光を浴びるや、ドラマやワイドショーに出まくる、芸人から芸能人へのスライドが、芸の精進を止めてしまったといったら、落語素人の私の眼力の甘さ、偏見でもあろうか?彼らは、落語は巧いのだが、その吐く言葉は、師匠談志に似てはいない。“賢さを中枢とした毒舌”ではないのである。単なる、嫌み・やっかみとしか伝わってこない。芸の巧さが、その底の浅い皮肉を、真実のように錯覚させている。
 
 人間国宝柳家小三治に、「久々の本物だ」と認められ、21人抜きで真打に昇進して、今や、最もチケットがとれない落語家春風亭一之輔などは、凡庸落語家の垂涎の的“笑点”のメンバーになっても、相変わらず、涼しい顔で、別にメンバーをいつ辞めてもいいといった雰囲気で、日曜の午後を華やかにしてくれている。“笑点”のメンバーになると、守り、守勢にはいるものだが、この“笑点”メンバーの役職に一切紛らわされないペースで、毎日寄席で芸を見せてもいる。どこか、若い頃の三遊亭歌丸を彷彿させる、ふてくされている・天の邪鬼的雰囲気すらある。
 
 立川談春は、TBSの日曜(ドラマ)劇場で、俳優として、立川志らくは、TBSのワイドショーの司会やコメンテーターとして、ある意味、別の肩書、いわゆる、‘エスタブリッシュメント’としての役職についたようなものだ。お笑い芸人が、バラエティー番組の司会やMCに就任するが如くである。これが、芸を、落語を、止めさせているといったら言い過ぎでもあろうか?私見でもあるが、一之輔には、その雰囲気はない。因みに、林家三平は、林家たい平の口利きで、笑点のメンバーにはなったけれど、力不足、役に見合わない活躍しかしなかったので、笑点メンバーから外された(降りた)。これも、「役が人を作る」の真逆バージョンである。
 
 世には、このように、その地位・役職に、一見して見合わない人材が、いざ、そのポストに就くや、豹変して、別人格になるケース、それに対して、力不足ともいおうか、期待外れ、予想ハズレの人間もいるという事例を挙げたまでである。
 
 では次に、この組織内で該当する社会上の定理とやらを、資格に当てはめて考えてみたい。これは、何も、資格のみならず、学歴というものにも適用できる。「東大までの人、東大からの人」の言葉から分かるように、その大学まで猛勉強し、合格の末、アルバイトとサークル活動のみに明け暮れて、適当に卒業した若者と、入学後も、その学部で前向きに学んだり、また、自身の興味ある、学部とは関係のないスキルを身に付けた若者との差とも言える名言である。これは、一番典型的な学びの行為として、英語への向き合い方にも該当する真実でもある。
 
 最近よく売れている新書で、『高学歴難民』(講談社新書)『高学歴ワーキングプア』(光文社新書)というものがある。この表題から、何らかの資格や大学・大学院での学びの経歴があるものの、社会的敗残者を言いあらわしている現実が伝わってもくる。この表題とも通底していることだが、『資格を取ると貧乏になります』(新潮社新書)というものもある。多くの資格所持者の、浅薄なる心持ち、浅慮なる人生設計しかできない者への、逆説的警鐘の書である。何か、資格を持てば安泰、大学を卒業すれば定職に就ける、そのように、社会の、人生の武器になるなどと、幻想や妄想を抱いてもいる凡人たちの群像をこれらの新書は、批判している。
 
 弁護士であれ、税理士であれ、不動産鑑定士であれ、司法書士や行政書士であれ、そうした資格を得た時点が、その道の初めの一歩であるという強烈なる自覚を有するか否かの違いである。凡庸なる資格保持者、平凡なる学卒の二十歳そこそこの新社会人は、この社会上・人生上の真実に瞑している。見えないか、見ようとしないか、認識できていないのであろう。こうした学び上の真なる姿といったものは、初等中等教育の段階でも、それと似た萌芽が現場教師には、わかっていることであろう。
 
 小学校の算数が得意だった者は、中学生になり、全く毛色の異なる教科数学に出会う。公立小学校の先取り進学塾で高度な算数をやっていればこその得意科目だった。その慢心か、高をくくってか、新たなることへ取り組む姿勢・心得を忘れ、中高一貫校に進むや、“その学校ペースで数学を勉強すればいいや”と心が緩む、箍を外してしまう少年は、中3から高1くらいになると、暗雲が立ち込める。苦手科目とあいなる。これは、何も、数学だけではなく、中学生の英語が得意だった、成績がよかった少女に関しても同様である。中学は、聞く・話すが主体の使える英語であったものが、高校ともなると、読み・書きがメインともなる、中級英文法ともなる、学びのギアチェンジをせず、中学時代のメンタルで押し通し、かちかち山の泥舟とあいなり沈んでもゆく。
 
 ここで、<社会人における資格系敗残者>と<学校における勉学上の負け組>がシンクロしてくる領域、それが、<英語検定試験という資格系英語テスト>の罠であり、罪でもある。
 
 知る人ぞ知る、学校の一部の英語教師は、ご存じのことだろう、中学生の英検3級保持者、高校生の英検2級保持者、彼ら彼女らが、どれほど、その資格の規定事項に見合わない実力の持ち主であるかである。日本の、英検タイトルホルダーの7~8割は、それに見合わない力不足ならぬ、資格規定不足の連中なのである。この病巣の遠因は二つ考えられる。 
 一つが、適当な勉強で、マークシート形式も加味し、実際の合格点に、偶然ゲット得点が10~20点くらいのゾーンで恩恵に浴してしまうのである。その合格後、それに見合う、その資格に恥ずかしくない実力の勉強をまずしないのが遠因でもある。丁度、大学に合格した時点が、英語の実力マックスの日本の大学生の縮図が、まさしく、英検という試験でもまかりと通っているのである。この英語検定の罠・罪といいた形式は、TOEICと社会人にも該当する。
 弁護士試験に合格する、公認会計士試験に合格する、すると、次は、実社会で、実務に精進を怠れない。自動車免許を持った時点で、即、次の日から街中の路上で運転を始める。しかし、英検だけは、その検定試験に合格した時点で、その実力だと妄信・盲信してしまう。事実、その時点の英語力は合格後、ほとんどは、その英語を使う機会や場所がないためにしぼんでもゆく。日本の大学生が、大学入学後、英語が下降線をたどるのと同じ道を歩んでもゆく。
 
 「役職が人を作る」を捩って言えば、「資格が人を作る」どころか「資格が人を腐らせる」「資格が人をダメにする」というのが、英検という存在の罠にして罪なのである。現場でもろに高校生に教えていてわかるのだが、英検準1級所持者の、真の“実力”は、英検準2級程度でもあろうか?これは、嫌みでも、皮肉でもなく、実体でもある。

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