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小林秀雄から高校3年生の君たちへ!

 次の言葉は、私が人生でものの見方・ものごとへの切り口といった観点を学んだという点で最も影響を受けた人のものです。様々な物事~文学・芸術・思想・スポーツ・勉学など~を考察する上での鋭敏な視点〔考えるヒント〕を身に付けさせてもらった批評家、小林秀雄のものです。『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉―』(新潮新書)からの引用です。それに私なりの解釈を加えて受験生の心に響くようにコメントしてみました。
 
① 確かなものは覚え込んだものにはない。強いられたものにある。
 
 高校1、2年とは違い、高校3年生で、受験にこれから臨もうとする精神状態でいる君たちが、1年後(希望の大学入学後)、あるいは、社会人になって、「ああ、あの1年が人生で1番勉強したな!」と、初めて実感する真実です。高校3年生ともなれば、「部活か、今月で俺は引退かぁ!」「来年の今頃はこの学校に私はいないのかぁ!」「先輩たちはもういないのかぁ!」などと、悲壮感の伴う覚悟のようなものを抱くはずです。癌の末期患者が、余命1年を精一杯生きようとするメンタルに似た状態になるものです。高校1、2年は、まだ先輩もいる立場上、無限に時間があると錯覚し、安穏と、勉強も惰性でやって、一種、受け身的に≪覚え込んだ≫学習習慣の中でやってきた人が多いと思います。しかし、高校3年生ともなれば、勉強のギアーがトップに入ります。時間がない、追い込まれた精神状況になるわけです。この、≪強いられた≫学習習慣に入ってやったことこそが、血となり肉となるのです。一般論的に言えば、推薦で大学生になった者、附属で大学に上がった者と一発勝負の受験を経て大学生になった者の、英語力の違いといったもので、これが証明されています。不確かな(?)英語力と確かな(?)英語力とも言える側面です。この小林の言葉は、自己を極限状態に追い込めということでもあるのです。毎日を真剣勝負で過ごしなさいという謂いでもあります。高校1、2年生でも、これに早く目覚めたものが勝者となるのです。この小林の言葉の真実は、「明日死ぬと思って今日を生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」というガンジーの言葉とも通底しています。志望の大学に入り、学ぶ心根を再度、能動から受動へと、アルバイトやサークルなどで逆戻りした新大学生にも送りたい言葉です。
 あの宮本武蔵(『宮本武蔵』吉川英治著)が、二刀流を編み出した萌芽(きっかけ)は、道場(高校1~2年の教室)という習いの場ではなく、鎖鎌の妙手宍戸梅軒との生死をかけた真剣勝負の状況下にあったのであり、その二刀流の完成は、吉岡一門という70名近い相手との生きるか死ぬかの勝負、切羽詰まった状況(高校3年の受験期)にあったという事実を鑑みれば、この言葉の奥深い真意は納得されるやもしれません。人間というものは、いや、生物全般にも言えることですが、追い込まれた状況にこそ、真のものを獲得するものです。ついでに、巨人原監督の若かりし頃の言葉です。
 
「多摩川グランドでの1000本のノックをさばく練習よりも、日本シリーズでの三塁ゴロをさばいた、その1球こそが自分を成長させてくれた」(原辰徳)
 
 
 
② 不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか。
 
 「あの子は推薦枠でもう大学が決まっていいなぁ!」そう感じる時期が、この高校3年間で芽生えるやもしれません。しかし、君に以上の言葉を贈ろう。曖昧模糊として不安に接していることと、覚悟を決めて不安と対峙することと、その後者を選び取った者のみが実感できる真実です。「艱難汝を玉にする」
 
 
 
③ 困難は現実の同義語であり、現実は努力の同義語である。
 
 「神は困難を突破できる者のみに困難を与えられた」何も説教をしているのではない。人生の真実を言っているまでです。困難とは努力することである。現実を困難と感じられていない人間など努力しているなどとはとてもじゃないが言えない。高校3年生の君たちが、この1年で努力の“ド”の字を人生で初めて手にすることになるのです。極論を言おう。受験で失敗した人間は、実は、努力し足りなかった者でもあるのです。
 ここで、先日引退したイチローと王貞治(ソフトバンク元監督)とのやりとりを語っておくとしよう。
 「王さん、打撃って、簡単ですが、難しいですか?」
 「イチロー君、やはり難しいよ」
 この王さんの言葉を聞いて、安心と同時にますますイチローは王さへの尊敬度が増していったといいます。これは、芦田愛菜が中学受験期に座右の銘としていた言葉だそうです。
 「努力は必ず報われる。報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とは言えない」
私流に言えば、努力という言葉は、勝者のみが吐くことが許される、カッコイイ“謙遜としての勲章”の言葉でもあるのです。少々、皮肉まじりに言わせてもらえば、立川談志の本の題名ではありませんが、「努力とは馬鹿に(あた)えた夢である」とも言えなくはありません。これは、ビリギャルの本を読み、夢ついえた少女たちに適用できます。
 
 
 
④ 広く浅く読書して得られないものが深く狭い読書から得られる。
 
 弊塾の高等科〔※高3向けのもの〕のテキストαという教材を読み進む上で実感されることとであろう。勉強は~実は、勉強だけではないが~量より質であるということを{※勿論、反論される方がいることを前提に言っているまでです、質と量の捉え方はその人の真の実力や基本を前提にしてまちまちとなるものです}。標準的な高校生に向かって、いや、秀才にしてもそうです。高校3年の前半までは、多読よりも精読。それも、易しいテキストではなく、難しいテキストをです。次の弁は、受験英語の神様、駿台予備校の英語科のブランディング中興の祖でもある伊藤和夫のものです。
 
 「ゆっくり読んでわかる文章を練習によって速く読めるようにすることはできるが、ゆっくり読んでわからない文章が速く読んだらわかるということはあり得ない」(伊藤和夫)
 
 
 
⑤ 考えるとは、物と親身に交わる事だ。
 
 これから小論文を書こうとする生徒に贈る言葉である。小論文とは、“物をどれだけ真剣に考えているか”のリトマス試験紙なのです。考えるということは、18年間生きてきたフィールド内で、趣味の領域をどれだけ増やしてきたかとさえ言ってもよい。次の2つのある言い古されたことばから、この小林の言葉を熟読吟味して欲しい。
 
 「人は、自己の考えや主義、また能力を批判されるよりも、自己の趣味をけなされる方がむしょうに腹が立つものである」{※学校での成績より、自分の好きなミュージシャンやスポーツなどを思い浮かべて欲しい}
     
 「母親は自分の子供がけなされる時が一番むきになって反論したくなるものです」
     
 
 
⑥ 人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可き事実である。
 
 以上の言葉から、スマップの「世界に一つだけの花」{※音楽の教科書にも掲載された国民的名曲です}やさだまさしの「主人公」{※さだまさしのファンのアンケートで好きな曲1位になった名曲です}を想起してしまいます。これは、少々難しくいえば、サルトルの実存主義ともなります。
 It’s never too late to be what you might have been. (George Eliot)
 (なりたかった自分になるのに遅すぎるということはない)
 
 
 
⑦ 君は解るか、余計者もこの世で断じて生きねばならぬ。
 
 以上は、受験で本望の結果が得られなかった生徒に贈ろう。
 

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