カテゴリ
- おすすめの参考書
- 保護者の方へ (10)
- 2020年問題 (3)
- おすすめの教養書
月別 アーカイブ
- 2024年12月 (1)
- 2024年11月 (4)
- 2024年10月 (4)
- 2024年9月 (5)
- 2024年8月 (4)
- 2024年7月 (5)
- 2024年6月 (4)
- 2024年5月 (4)
- 2024年4月 (5)
- 2024年3月 (4)
- 2024年2月 (4)
- 2024年1月 (4)
- 2023年12月 (4)
- 2023年11月 (4)
- 2023年10月 (5)
- 2023年9月 (4)
- 2023年8月 (3)
- 2023年7月 (5)
- 2023年6月 (4)
- 2023年5月 (5)
- 2023年4月 (3)
- 2023年3月 (5)
- 2023年2月 (4)
- 2023年1月 (4)
- 2022年12月 (4)
- 2022年11月 (4)
- 2022年10月 (4)
- 2022年9月 (4)
- 2022年8月 (4)
- 2022年7月 (4)
- 2022年6月 (4)
- 2022年5月 (4)
- 2022年4月 (4)
- 2022年3月 (4)
- 2022年2月 (4)
- 2022年1月 (5)
- 2021年12月 (7)
- 2021年11月 (4)
- 2021年10月 (5)
- 2021年9月 (4)
- 2021年8月 (4)
- 2021年7月 (4)
- 2021年6月 (4)
- 2021年5月 (10)
- 2021年4月 (5)
- 2021年3月 (8)
- 2021年2月 (4)
- 2021年1月 (6)
- 2020年12月 (6)
- 2020年11月 (7)
- 2020年10月 (4)
- 2020年9月 (4)
- 2020年8月 (4)
- 2020年7月 (7)
- 2020年6月 (6)
- 2020年5月 (6)
- 2020年4月 (5)
- 2020年3月 (5)
- 2020年2月 (4)
- 2020年1月 (4)
- 2019年12月 (5)
- 2019年11月 (5)
- 2019年10月 (4)
- 2019年9月 (5)
- 2019年8月 (4)
- 2019年7月 (6)
- 2019年6月 (5)
- 2019年5月 (4)
- 2019年4月 (6)
- 2019年3月 (6)
- 2019年2月 (3)
- 2019年1月 (4)
- 2018年12月 (4)
- 2018年11月 (3)
- 2018年10月 (7)
- 2018年9月 (4)
- 2018年8月 (3)
- 2018年7月 (4)
最近のエントリー
HOME > コラム > 真の"中退"とは光栄ある孤立である
コラム
真の"中退"とは光栄ある孤立である
これまで、数回にわたり、中退というものを語ってきました。この中退、義務教育課程の中学校までは、この用語は適応できないやもしれません。不登校、フリースクールなどの手法もあるからです。義務教育には、中退は、あり得ないからです。この中退とは、高校から大学までというのが、一般的な相場ときまっています。この中退とは、昭和から、平成、そして令和と、その否定的ニュアンスが薄らいでもきた趨勢は、ちょうど、日陰もの的存在の、塾や予備校といった存在の台頭とも関連性があるように思われます。そこには、大学入学検定試験といった存在にも光が当たってきたこととも一致します。
この高校中退にしろ、大学中退にしろ、スタンダード的目線では、否定的、日陰者的ニュアンスが、いまでもまとわりついてきます。昭和なら1000人に数人、平成なら500人に数人、令和なら100人に数人と、ざっと、私のドンブリ勘定的推測で申し上げれば、こうなります。いわば、稀ではない行動になってきていることは、ちょうど、異端的生き方が、公然となりつつある証拠でもありましょう。世界的流れとして、LGBTQの人々や様々な発達障害の少年少女といった存在が、社会的に認知されてもきている傾向とまさに一致していようかと思います。彼らは、気質的、精神的と、内面に起因することがきっかけともなる社会的・制度的マイナー派でもあります。一方、中退組は、制度上によるマイナー派でもありましょう。現今、前者の内面的要因で、中退した者たちは少なくありません。むしろ、私がこのコラムで俎上にのせた中退組とは、そうした派ではなく、環境や社会、学校・大学など、周辺部、外発的要因で中退した人々なのです。その意味で、私のいう“中退”とは、浪人や転職・退職・脱サラに近いものやもしれません。学校の授業についていけない者、学校の学びに興味がなくなった者、いや、アホらしくなった者、授業料の未納など経済的理由の者、両親の離婚等の家庭内の不和による者など、環境的不如意による中退組を言うのです。もちろん、その中退組の中には、深層部では、様々な、いま流行りのアスペルガー症候群やら、ADHDなどに起因する中退者もあるやもしれません、しかし、その当人は、その中退という行動へ駆り立てたものなど意識も、自覚もしていなかったことでしょう、むしろ、私は、その中退による社会的異端児ともなった、その人の運命、状況、進路の、その人自身に見えていた、精神の光景とやらに光を当ててみたかったのであります。なぜかと言えば、私自身、この中退、高校中退といったものを、もろに、16才から17才に移行する、まさに思春期に体験しているからです。この体験は、自身のあらゆる気質というものに革命を起こしたからであります。これは、体験ではなく、経験と呼んだ方が適切な邂逅でもありました。この事については、次回で詳しく語ることとして、軽く少々文学チックに申しあげれば、このような喩えともなりましょう。
就学旅行で貸し切りの新幹線に乗りそこね、その後のビジネスマンだらけの新幹線でぽつ然と一人で京都に向かう心境とでいいますか、また、運動会が楽しみで、駈けっこが得意な少年が、脚を骨折し、はたで見学している心持とでも申せましょうか。さらに、戦前の、少々裕福な坊ちゃんが、軽い結核になり、伊豆かどこかの避暑地の療養所から散歩がてら、夏の浜辺に出向き、様々な幸せそう親子連れが渚でたわむれている光景をじっと見つめている心の中とでも申せましょう。そうです、月並みな表現ですがある意味、疎外感というものをかみしめる境遇というものです。この苦虫をかみしめる経験というもの、それが、その人をどう変貌させるものか、その経緯を、中退者の中に垣間見えるということでもありましょう。以上の三つの事例を用いて、英文読解や現代文の授業で、“疎外感”のその意味するところを説明すると、幸せな教え子の少年少女たちは、深く、その定義を理解してもくれます。
この中退という行為は、現今、カドカワが運営するN高の台頭現象、また、転職サイトの隆盛、こうしたものに如実に表れているかと思います。個という存在が、組織というものに不適応した際、我慢するのではなく、別の道へと人生行路を逸脱させる、いや、方向転換させる内面の駆動力へ抵抗感を感じない気質の芽生えが、今や、マイナーではなくなってもきた証拠の顕れとも思われるのです。
前回、引用した、表層的ビートたけし論の副題も、“中退者の美学”にした所以は、中退組の成功者への最大の讃辞のつもりで付けたのです。恐らくであります、『週刊ポスト』(小学館)の長年の名物コラム、ビートたけしの“ビートたけしの21世紀毒談”などは、丁度、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』に準えてもいいものかもしれない。ある意味、ビートたけしの言説は、“現代を《超人》として生きよ”と、そうした主旨を、漫画チックに扇動、いや、啓蒙してるかのようであります。
「日本人は均一性を欲する。大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫である」(司馬遼太郎)
この高校中退にしろ、大学中退にしろ、スタンダード的目線では、否定的、日陰者的ニュアンスが、いまでもまとわりついてきます。昭和なら1000人に数人、平成なら500人に数人、令和なら100人に数人と、ざっと、私のドンブリ勘定的推測で申し上げれば、こうなります。いわば、稀ではない行動になってきていることは、ちょうど、異端的生き方が、公然となりつつある証拠でもありましょう。世界的流れとして、LGBTQの人々や様々な発達障害の少年少女といった存在が、社会的に認知されてもきている傾向とまさに一致していようかと思います。彼らは、気質的、精神的と、内面に起因することがきっかけともなる社会的・制度的マイナー派でもあります。一方、中退組は、制度上によるマイナー派でもありましょう。現今、前者の内面的要因で、中退した者たちは少なくありません。むしろ、私がこのコラムで俎上にのせた中退組とは、そうした派ではなく、環境や社会、学校・大学など、周辺部、外発的要因で中退した人々なのです。その意味で、私のいう“中退”とは、浪人や転職・退職・脱サラに近いものやもしれません。学校の授業についていけない者、学校の学びに興味がなくなった者、いや、アホらしくなった者、授業料の未納など経済的理由の者、両親の離婚等の家庭内の不和による者など、環境的不如意による中退組を言うのです。もちろん、その中退組の中には、深層部では、様々な、いま流行りのアスペルガー症候群やら、ADHDなどに起因する中退者もあるやもしれません、しかし、その当人は、その中退という行動へ駆り立てたものなど意識も、自覚もしていなかったことでしょう、むしろ、私は、その中退による社会的異端児ともなった、その人の運命、状況、進路の、その人自身に見えていた、精神の光景とやらに光を当ててみたかったのであります。なぜかと言えば、私自身、この中退、高校中退といったものを、もろに、16才から17才に移行する、まさに思春期に体験しているからです。この体験は、自身のあらゆる気質というものに革命を起こしたからであります。これは、体験ではなく、経験と呼んだ方が適切な邂逅でもありました。この事については、次回で詳しく語ることとして、軽く少々文学チックに申しあげれば、このような喩えともなりましょう。
就学旅行で貸し切りの新幹線に乗りそこね、その後のビジネスマンだらけの新幹線でぽつ然と一人で京都に向かう心境とでいいますか、また、運動会が楽しみで、駈けっこが得意な少年が、脚を骨折し、はたで見学している心持とでも申せましょうか。さらに、戦前の、少々裕福な坊ちゃんが、軽い結核になり、伊豆かどこかの避暑地の療養所から散歩がてら、夏の浜辺に出向き、様々な幸せそう親子連れが渚でたわむれている光景をじっと見つめている心の中とでも申せましょう。そうです、月並みな表現ですがある意味、疎外感というものをかみしめる境遇というものです。この苦虫をかみしめる経験というもの、それが、その人をどう変貌させるものか、その経緯を、中退者の中に垣間見えるということでもありましょう。以上の三つの事例を用いて、英文読解や現代文の授業で、“疎外感”のその意味するところを説明すると、幸せな教え子の少年少女たちは、深く、その定義を理解してもくれます。
この中退という行為は、現今、カドカワが運営するN高の台頭現象、また、転職サイトの隆盛、こうしたものに如実に表れているかと思います。個という存在が、組織というものに不適応した際、我慢するのではなく、別の道へと人生行路を逸脱させる、いや、方向転換させる内面の駆動力へ抵抗感を感じない気質の芽生えが、今や、マイナーではなくなってもきた証拠の顕れとも思われるのです。
前回、引用した、表層的ビートたけし論の副題も、“中退者の美学”にした所以は、中退組の成功者への最大の讃辞のつもりで付けたのです。恐らくであります、『週刊ポスト』(小学館)の長年の名物コラム、ビートたけしの“ビートたけしの21世紀毒談”などは、丁度、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』に準えてもいいものかもしれない。ある意味、ビートたけしの言説は、“現代を《超人》として生きよ”と、そうした主旨を、漫画チックに扇動、いや、啓蒙してるかのようであります。
「日本人は均一性を欲する。大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫である」(司馬遼太郎)
2024年11月11日 16:36