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英語を英語で教えるの愚

<読み・書き・話し・聞く>の4拍子の能力のうち、<聞く>能力、即ち、リスニングテストなるものが、何故あるのか、それは当然、テニスでいうところを、打ってきた球を打ち返す技術、また、野球でいうところの守備能力の必要性と同じものがあるのは当然であり、コミュニケーションというラリーにとってなくてはならない要素であるから重視もされるのでしょう。しかし、そのリスニング力とは、洋画を英語のみで観たり、大学の講義を英語で受講できたりする能力とは、また別ものである点を忘れている関係者があまりに多い。資格試験、英検にしろ、TOEICにしろ、そのリスニング対策をして、高得点をゲットした大学生・社会人が、いたとしよう、その者の“高得点”が果たして、即、大学での英語の講義やビジネスの商談などのスキルとどれほど結びついているのか、深く認識していない英語教育関係者があまりにも多すぎる。
 このリスニングテストとは、一線を画し、英語という言語を英語で習うという命題を掲げてみたいと思います。いや、リスニング能力が、どれほど英語の授業で生かされているのか否かという問題ともなりうるテーマとも言っていいかもしれません。
 小学生に英語を日本語を交えずに教えるともなれば、内容もさほど難しくはない、また、単語の難易度や文章のレベルも高くはない。なんとなく意味や言いたいことがフィーリングの世界で了解されてしまう、また、不明な時は、正直に「わかんない!」と叫べばすむ初等教育でもあります。文法を無視して、フィーリング英語の世界で用が足りる領域・レベルでもあります。
 では、中学生(※公立の中学校の授業)の英語を、外国人が、日本語を交えずに、英語のみで教えるケースを考えてみましょう。これとても、レベル的に、文法や語彙、言い回しなど、なんとなく了解している生徒が、半数以上であると思われます。日本人の英語教師が、片言の、また、プチ流暢な英語で話しかけても、意味や内容は、分かる、ある意味、受動的了解はOKでしょうが、少々高度、抽象的な内容の事柄ともなれば、顔を曇らせ、分かった気分で授業が過ぎ去ってゆくものだと思われます。
 それでは、高校生に、英語を英語のみで教える授業を考えてみましょう。これこそ、日本語の文法用語、例えば、Thatに関して言えば、代名詞、接続詞、関係代名詞などといった文法用語を用いずに、英語のみで英語の文法解説から、読解にいたるまで、それこそ教授などしようものなら、どれほどの生徒が、その英語の文法や構文、そして意味内容の本質が理解できましょうや?
 よく、文法批判主義者の最右翼が口にする言葉、<「これは、関係代名詞ではなく、関係副詞です」「これは、To不定詞の副詞的用法で、‘~するために’という意味に訳すのです」とか、小難しい文法用語を使用するから英語嫌いが増えて、英語ができなくなるんです>という愚論を語ります。これは、<古文において古典文法なんてやるから古文が読めない、古典の苦手な生徒が生まれる>という暴論と同じものなのです。そもそも、そうした、文法用語や語彙の品詞の分類と整理など頭の中できちんとできない生徒などは、そもそも、外国語はもちろん、古典に至るまで習得できない地頭の生徒とさえ言っても過言ではないと思われます。つまり、母語と外国語、現代語と古典語、それを客観的に視座する概観能力、それこそが、文法という体系であり、言葉のルール(規則)でもあります。それは、数学という数の体系と似たような学問的真理をうちに孕んでもいるのです。
 高校生に英語の授業で日本語を交えずに、高度な内容の英文を読解、また、指導するという行為は、高校生の‘知的白痴化’を推進することと同義であるとさえ言ってもいいかと思われます。
 そこでです、リベラルアーツの科目、それも文学・哲学・経済・政治に至るまで、純ジャパ{※12歳から英語を始めた日本人の大学生}の大学生に英語のみで教えたとします。それが、果たして、どれほどのレベルで彼らに血肉化するのか、良心的・現実的な現場の講師なら、痛いほど認識しているはずです。
 そもそも、高校生から大学生にかけて、知的高度の内容を英語のみ教授する段ともなれば、せいせい大学や学科、学生の質などにもよりますが、その大学の純ジパの母集団の3割弱も身につかないと断言できます。
 「いやいや、我が教え子は、きちんと私の英語の講義を理解してくれて、内容も本質も身に付いているはずです」と豪語される大学講師がいたとすれば、その講師の講義の内容のレベルを問うてみたい、「どの程度の内容の授業をされているのですか?」と。
 英語の授業を英語で受けて「わかった!」と応じる高校生、哲学・経済・政治の講義を英語で受けて「ためになった!」と回答する大学生、こうした輩は、ある意味、「わからない!」「ちんぷんかんぷんです!」を口外することが、ひいき目に感じる、はばかられる、知的‘見栄っ張り’学生であると断言してもよろしかろうと思われます。小学生の子供の正直さを失っている、つまり、わかっていないのに、わかっていると虚言を吐く‘学ぶ<裸の王様>’でもあるのです。アンデルセン童話の、見えない王様の衣を、「なんと素晴らしいか」と絶賛する家臣や市民が、真に、半分以上もわかっていない内容を、「わかった、ためになった」とうそぶく大学生の姿にダブって見えてしますのは私だけでありましょうか?慧眼ある現場教育者なら、こうしたグローバル化の趨勢にごり押しされている、日本の英語教育の虚妄に気づいているはずです。
 文系に比べ、理系は英語での講義は、数段楽です。決まったフォーマット(表現)と自然科学系の専門用語を習得すれば、大方のコミュニケーションから、プレゼン、そして論文にいたるまで支障がない領域だからです。
 グローバル化という理想を掲げて、中等教育(中学・高校)はもちろん、高等教育(大学)に至るまで、習う科目(講義)を英語で行えという大号令は、亡国への処方箋以外の何ものでもないと断言しておきます。グローバル化教育は、ゆとり教育と同じ錦の御旗の下で推し進められてもいます。
 ゆとりの教育という、耳当たりのよい理想論を掲げて頓挫した文科省の方針同様に、安倍将軍(首相)や下村大老(文科大臣)の配下、文科省の連中は、現場と現実が見えてはいないのです。道徳教育の科目化やらアクティブラーニング導入の方針なんぞは、とっくの昔に、名門校や優秀な教師の下、国語や英語、社会という科目の中でとっくに取り入れられ、教え込まれ、実践されてもきたのです。それは、真の英語教師に接しているのなら、英語という科目の背後に、英語教師の背中に、教養から、あまねく知識をも学際的に学び取るものなのです。その教師のさりげない口調・言葉尻から、道徳というものに気づかされる‘考える倫理’までも自覚されてくるような流儀で生徒は成長してゆくものです。
 新しく導入される、プログラミングやアクティブラーニングといった科目のせいで、従来の英数国理社の授業時間が減らされるという危機感を抱く教育関係者・親御さんに、「大丈夫です、プログラミングやアクティブラーニングという科目の中で、英数国などを教えるので、心配ありません」と応じる文科省以下、一部の教育関係者、また尾木ママこと尾木直樹氏までもが、体制派に与しているありさまです。本来なら逆でしょうが!「英数国などの授業のなかで、プログラミンを導入したり、アクティブラーニングを取り入れたりして、その教科のレベルの向上と質の進化を追求していく」というのが、本筋だと思うのですが、如何でしょうか?

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