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科目の多様化の害①

 今日、世界のみならず日本においても、ダイバーシティー社会のビッグバン現象なのか、様々なジャンルで、細分化が進んでいる模様です。

 2020年にいよいよ開催される東京オリンピックの競技種目のなんと多種細々なこと!「え~!こんな種目が競技に採用されるの?」具体的に言えば、そのシンパの人から顰蹙やご批判をうけるので、敢えて具体的競技名は挙げません。こうしたオリンピック競技の多種目化が、オリンピックの費用が膨大に膨れ上がり、開催する国が激減している大きな理由の一つでもあるのでしょう。はっきり言いますが、メダルの価値も“暴落”していると言えば、ご批判を招くことでしょう。暴落していなのは、選手自身の心の中だけです。

 今では、eスポーツをも、オリンピック競技に加えようかと世界では話題になっているほどです。

 プロ・ボクシングなども、スポーツ界の規定を象徴してもいます。今では、数キロごとに階級が分かれ、数十年前なら存在しなかった階級が出現し、また、WBAやWBC以外にも、「何この団体?」と素人でも聞き覚えのないボクシング団体が存在しています。

 先日も井岡一翔が日本人初の4階級制覇とスポーツニュースを賑わわせてもいました。しかし、50年以上も昔、WBA{WBC(まだ存在していなかった?)}しかなかった時代、しかも、現在の体重規定の倍以上ウエイト(階級)の幅があり、15ラウンド{現在は12ラウンド}も戦わねばならなかた状況で、(幻の)3階級制覇を成し遂げたファイティング原田の凄さは、井岡の4階級とは比べようもありません。前回の東京オリンピックの或る種目の金メダルと今回の東京オリンピックのそれとの重みの違いとも比喩できます。

 こうした現象は、スポーツだけに限ってはいません。特に日本国内を例に挙げれば、世界遺産登録熱ブームです。もう、その関連団体、その地方公共団体などがこぞって、おらが町のXを、世界遺産登録へ、そして、観光客誘致へ、勲章欲しさの政治家の根回しのように思えてなりません。私個人の意見ですが、富士山なんぞは、世界遺産登録など無用であったと思っているほどです。理由は長くなるので、この場では申しませんが、富士山だけでなく、外にも、数件あるほどです。国連の一機関にすぎない、ユネスコのお墨付きなどにぺこぺこしながらもらい受けるなんぞは、卑しい政治家の名誉欲(大臣職や勲章)と似て非ではないと思うのです。こうした、地方公共団体の世界遺産登録のロビー活動で、あと50年もすれば、一村一品運動{※昔大分県の平松知事が広めた地域活性化運動}のごとき、おらが県にもせめて一つは世界遺産をといったくだらない名誉欲根性で、今の倍以上にバブル的に増殖するのではないかと憂慮(?)している私は、へそ曲がりでしょうか?

 なぜこうした、話しを始めたか?それは、教育のジャンルにおいても、同現象が生じているからです。

 一昔前(共通一次時代)なら、中学では、国語数学理科社会英語でありました。高校では、理科が、物理・化学・生物・地学であり、社会は、歴史・地理・政経・倫社くらいでありました。つまり、科目の括りがいたってシンプルであったのです。平成も後期になると、社会科では、現代社会が出現し、歴史や地理はAやらBに分かれ、理科では、理科ⅠやらⅡといったジャンルが出現し、英語に至っては、グラマー(文法)やリーダー(読解)は、今や、何の科目は判明しない名称、英語表現Ⅰだの、コミュニケーション英語Ⅰだの科目の表紙・看板を掛け換えをしているに過ぎない意味不明の改革の連発です。生物の細かい品種の分類ならば、緻密にして、精確さを求められる名称も必要でしょうが、また、高等教育における研究分野、バイオテクノロジーや、遺伝子工学など、ジャンルの学際性から必要ともなるでしょう。しかし、初等・中等教育の段階で、果たして、科目の応用性など必要であるかどうか、それを問うてみたいのです。日本史と世界史をなくし、共通歴史(歴史一般)として高校生に学ばせるカリキュラムも考案中と聞き覚えがあります。この件に関しては、ここでは触れません。

 まず小学生に、英語とプログラミングを取り入れる教育です。ただでさえ、国語算数理科社会(体育音楽図工)などの授業時間が不足する状況の中、英語やプログラミングを教える必要があるのかといった問題です。この二つは、企業側の論理、将来役に立つ人材を育ててくださいとの主張に、文科省が、ある意味忖度して、科目化したのが実情ではないかと睨んでいます。親御さんたちもグローバル化の風潮で、英語とデジタル(論理)の表層的大切さで、国に迎合してもいるのでしょう、大方、賛同しているとの調査結果がでてもいます。彼らは、国が、学校が、何でもかんでもやってくれていいとお思いでしょうが、それが、実は、現場ではほんのちょっぴりの表面的学習で、本質や演習は個人で、それも塾などでたっぷりやってくださいねというカッコつきの方針に過ぎません。小学校から、英語やプログラミング教育を始めたとて、個人でその科目の勝ち組になれないのは、英語や数学が中等教育で、塾・予備校が不可欠な存在になっているのと同じ“負の轍”をつくることになるのです。

 「算数や国語の時間が英語やプログラミングに食われるではないか?」の主張に、国よりの、新しもの好きの教育評論家は「いえ、大丈夫です、英語やプログラミングを通じて、算数や国語も学びますから」と返答してくる始末です。馬鹿もほどほどに言え!そんな起用なことは現場でできるはずもない。ただでさえ英語は教員になる際に必要とされなかった小学校教師、また、プログラミングなど自身が学びもせず、また、習ったこともない30代40代の小学校教員がほとんどの状況で、その算数・国語と英語・プログラミングの両刀使いを期待するなんぞは、高校球児に、大谷翔平を見習え!大谷翔平同様に、ピッチャーもバッターもやれ、得意になれと要求するようなものです。この、机上の空論と現場の実情のギャップの認識不足は、ゆとりの教育で失敗していることを文科省が猛省していない証左でもあります。また、大学入学共通テストの頓挫と同様の病根が透けて見えてきます。

 中学・高校で、アクティブラーニングを取り入れるのも同じであります。ただでさえ、基礎科目、いわば、英数国理社、それも中学以上に細かく分かれた教科の中に、アクティブラーニングを取りいれることは、山手線の横長の10人がちょうどいい座席にあと1~2人無理やり座らせることと同じ、また、科目の“通勤時の京葉線のラッシュ(すし詰め電車)現象”とあいなることが想像できないのであろうか。これも、文科省、そして、尾木ママ(尾木直樹)などは、「国語や社会などもアクティブラーニングで学ぶのよ~!だから大丈夫なのよ~!」と、オネエ調で、いかにも新しい教育の風に理解ありげな口調で、今般の教育大改革を弁護すらしている始末です。

 体育にしても、ダンスが取り入れられたり、これから先、極論ですがeスポーツも学校で取り入れられかねません。ダイバーシティー社会を錦の御旗として、ロッククライミングやスケーボードなども、体育という名称が廃止され、学校でもスポーツという用語が一般化する中、部活や課外活動で常態化してゆくのではないかと思います。その是非は世論に委ねます。

 言語の多様化、これは大賛成です。センター試験や新テストでフランス語、ドイツ語、中国語などもっと多くの受験生が生まれること、そして、学校で教えることは、英語帝国主義・英語絶対化(グローバリズム)のど真ん中にある世界に、文化の多様性として、また、生物の多様性同様、大歓迎です。また、高等教育という、一種、応用性がもとめられる世界では、学問の多様化は、文明の進歩のエンジンともなり必須の要件でもあります。しかし、科目の多様性優先ということになると、初等教育はもちろんのこと、中等教教育においても、一歩立ち止まる、留保しなければならないとするのが私の論旨でもあるのです。

 今では、白物家電において、中国の独壇場、半導体においては、韓国のお家芸でもあります。

 バブル以前の日本は、白物家電は当然、半導体にしても世界一の国でありました。バブル崩壊後、パナソニックやサンヨー、シャープの優秀な社員は、中国の大企業に、NECや富士通の研究者は、厚遇で韓国企業に、それぞれヘッドハンティングされ、そのノウハウが中国や韓国の大企業に、ある意味パクられ、白物家電や半導体は、日本では斜陽産業になってしまったのです。ここであります。現在日韓関係は最悪の状態にあります。慰安婦問題・徴用工問題、自衛隊レーザー照射事件などで、しびれを切らし安倍政権は、半導体に絶対必要な、フッ化水素、フッ化ポリイミドなどの品目を輸出規制にのりだしました。この輸出品目を作れるか否か、それが基礎研究の基盤であり、真の科学力の証明でもあるのです。日本レベルに品質の良いフッ化水素は、中国では作れないといいます。また、現在の韓国では、これから作ろうとしても、十年近くはかかるだろうとされています。この点こそ、日本のお家芸でもあった基礎科学研究というジャンルです。家電製品やスマホなどは、中国・韓国にかないません。しかし、こうした、一般大衆には見えない、うかがい知れない科学領域、それこそ、基礎研究というものです。この基礎研究を、今の日本は大学における補助金・助成金の削減で、軽視し過ぎてもいます。伝家の宝刀、フッ化水素という刀を今般、日韓関係の悪化で、業を煮やした安倍政権は抜いたのです。しかし、これから先、こうしたお家芸とも、時に、伝家の宝刀ともいる基礎研究部門を抹殺しようという、金の卵を産む鶏をも、餌を与えず、絶滅へと追いやろうとしているのです。

 ここで、主張しておきます。自然科学分野で人口12億の中国{※近年1人出た}でも、人口5千万の韓国でも、ひとりとして、ノーベル賞を受賞した人物がいないことを考慮した時、現在の日本は、間違ったこれまでの教育に中国や韓国の轍を歩もうとしているように思われてなりません。私は、一応、戦後の日本の初等・中等・高等教育が間違ってはいなかたと言いたいのです。教育にも不易流行というものがあり、変えてはいけないもの、変えなければならないもの、その明確な線引きができない文科省・安倍政権は亡国へと我々を導いているように思えてならないのです。


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