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都合のいい「もしも論」➁~学校スマホ可の愚など~

①<学校へのスマホ持ち込み正しいの?>
 
先日、文科省が、公立小中学校への生徒のスマホ持ち込みを容認する方針をだしました。その主な引き金となったのは、東日本大震災のような事態ともなれば、「子供との連絡を取りたい」「子供の安否を確認したい」「子供の居場所を知りたい」などなどの一部の親御さんからの要望を盾にして、また、「下校途中に何かの事故・事件に巻き込まれた際の緊急連絡ツールとして必要だ」とか、様々な意見・要望に押されて決定したようです。
 この経緯は、まさしくイージス・アショアを導入したのと同じ論法を持ち出した感を抱かずにはいられません。なぜか、それは、子供のもしものために、どれほどその子の日常の生活にマイナスの面をもたらす{男子ならゲーム中毒・女子ならSNSを通じての成人男性からの誘惑など}か、その<もしもの保険のプラス面>と<通常のスマホの学習・生活に与えるマイナス面>を天秤にかけた時の、負の側面の莫大さ・見えない危険性といったもの大きさです。事実、時代の趨勢で、どんどんスマホ保持の低年齢化は進んでゆくしょう。スマホが身体の一部になっている現象は、歩きスマホ・運転スマホを見れば明らかです。こうしたスマホをやりながら行動する人間を、最近では、“スマホ・ゾンビ”とも言うようです。スマホ育児まであるほどですから、デジタル・ネイティブ誕生は当然の未来の帰結でありましょう。また、スマホ利用の学校の授業展開も加速されてゆくでしょう。こうした時代の流れに、抗うことができない、窮余の策として、文科省は「イカサマもしも論」で、スマホ持ち込み容認と、妥協案的に事を運んできた模様です。これは、私の憶測・推測によるものです。
 これは、先般安倍首相の2月の休校要請の決定と同様の感を抱かずにはいられません。私個人としては、公立学校のスマホ容認(子供の危険回避・命大事)が、コロナによる一斉休校(⇐子供の危険回避・命大事)とダブって見えてきてしまいます。
 
②<教育現場にタブレット端末など必要なの?>
 
 また、一部の公立学校で推進されているタブレット端末支給の方針も浅慮と言わざるをえません。なぜかと言えば、生徒のスマホの所持率の急上昇、それに付随する、学校からのスマホのアプリ、つまり例えば、リクルートの使い放題格安スタディーサプリによる自己学習という宿題、こういったものが推進されつつある教育現場{※一部の高校では、スタディサプリから定期テストの問題を出題しているといいます}の実態のもとで、タブレット端末{※その製造業者が儲かる⇐大学入学共通テストにおける民間試験がベネッセグループに莫大なキックバックがもたれされる如く}を膨大な税金を使ってまで生徒一人一人に支給するくらの金があれば、20人学級の実現、教職員の給料のベースアップ、学校職場の環境改善など税金を充てる方面は多岐にわたっているはずです。イージス・アショア{※アメリカが喜ぶ}に充てる6000億円を、自衛官の待遇改善・職場環境の向上に充てた方が、どれほど、自衛官の士気が上がり、自衛官という職が魅力的になり、その職というものに憧れを抱き、自衛官になる若者が増えるか、それは、教員になろうとする大学生が、ブラック職場の風評もあり、激減していることとパラレルの関係でもあります。世の中がアナログからデジタルへ、人間からAIへ、店頭販売からネット販売(EC)へ、モノからコト消費へ、リアルからヴァーチャルへと時代は軸足を変えてきています。その“流行”に飛びつき、即、<グローバル化の御旗>を掲げ、そちらに国民を扇動する、その<こざかしいポピュリスム>に惑わされる国民は、教育というもののアナログの力、そのありがたさ・貴重さなどが見えないように、<目くらまし>をくらっているのです。
 余談ではありますが、このコロナ禍により、生命第一主義というファシズムが教育の領域にも足を踏み入れ、「アナログより、デジタルの方がいい」「オンラインでも、教室内の対面授業以上にいい効果が出る」「これからは週1,2回でも登校せず、オンラインによる自宅学習へと舵が切られてゆく」など様々な意見がテレビ等で聞かれますが、馬鹿を言ってはいけません。そうした方向へ進めば、それは、コロナに負けた、教育の自殺行為であると申しあげましょう。
  しかし、コロナ恐怖旋風に立たされた世の人々はこうした認識をお持ちではないはずです。
  もし、こうしたオンライン絶対信奉者がいたとすれば、それは、文明(ビジネス)と文化(教育)というものの線引きができていない部族の方々です。こうした考えをお持ちの国民、親御さんたちこそ、実は、2年前、1年前と大学入学共通テストにおける使える英語という‘錦に御旗’で、民間資格試験に世論調査で賛成していた人々なのです。財界の、文明の利器としての使える英語主義{※ビジネスの観点から英語教育を考える派}で、中等教育の文化として英語教育を全否定した論理と、「対面授業よりオンライン授業だわ!」と心変わりしている母親の浅はかな考えは同じなのです。
 今般のコロナ禍により、オンライン教育が追い風となっていますが、日本中の生徒にタブレット端末を配布することと、オンライン教育のインフラ、つまり、非常時における教育のデジタルシステム{※非常時に備え学校に一つ、ジャパネットタカタの放送収録室のような部屋を設置、その科目の教師がYouTubeで授業配信するシステムなどです}を構築することは別物である点はお断りしておきます。
 
③<グローバル化の論理を教育に導入する愚!>
 
 グローバリゼーションという大波に飲み込まれつつある日本も、教育も従来のままじゃ駄目だ、抜本的な教育改革が必要だ、世界は電子マネーだ、仮想通貨だ。日本は遅れている、導入だ、そうした経済やテクノロジーの進歩のどさくさ紛れにかこつけて、教育も高大接続だ、<使える英語>だ、よって<話す>技能も重視だ、したがって民間英語試験{※英検協会やベネッセが儲かる}を導入だ、考える力を試すにはマークシートには限界がある、よって記述形式だ、自主的に学ぶアクティブ・ラーニングだ、AI社会へ向けたプログラミング教育だ、などなどです。
  つまり、ビジネスのグローバリゼーションに名を借りた一種《教育面のショックドクトリン》であります。これらは、確かに耳当たりのいいスローガンです。しかし、大言壮語のアドバルーンほど国民にあてにならないものはない。電力会社の原発大丈夫論理です。時代が今までにないほどの激変を遂げる世界情勢の中で、国際化(政治レベル:国家)からグローバル化(経済レベル:GAFA ※イコールアメリカ化)へ物事がシフトしている空気の中で、こうした文言で教育を推し進めることが、実は一番危険であるのは、電力会社と政府が原発の説明会で地元住民を前にして、都合のいい条件ばかりあげつらい、その見えない恐ろしい危険性に気づかぬ住民と同様に、世の親御さんやその子供たちは同様の運命を辿ることになるのです。
 但し、断っておきますが、私は原発全廃論者ではありません。中国が原発を超推進している中、もし、その隣の大国で、チェルノブイリ級の原発事故でも起ころうものなら、日本でもその非常時の対応策として、<原発安保>の観点からも研究者や専門家、電力会社など保持しておかねばならないということ、そして、原油や石炭などのエネルギー危機への“もしもの保険”としても原発は最低限保持しておかねばならないと考えてもいるからです。
 
④<英語民間試験と政治(仏独の真似“移民”)経済(民営化)政策は同じ病根!>
 
 こうした原発流「イカサマもしも論」というものの典型は、教育に関して言えば、ゆとり教育という大バルーンだったのです。この方針は、全国津々浦々の学校に優秀な教師がいるという虚妄的前提で、やる気のある生徒が大勢いるという生徒学習意欲性善論的前提で成立するものでした。理想の、甘い耳当たりの良い文言・机上の空論に丸め込まれた国民やマスコミが原発「イカサマもしも論」と同様に丸め込まれた形です。この原発流「イカサマもしも論」と同じ論法で実施されたのが、外国人労働移民法、正確には、「入国管理法改正」です。立憲民主党など、これを‘合法的奴隷法’とまで呼んで批判しています。それは、外国人への人権的側面です。国内的には、治安の悪化、また、外国人の孤立化などなどの諸問題です。現在のフランスやドイツが抱えている“移民という難題”を、愚かにも率先して抱え込むことになる未来予想図が見えていない、そうなるはずがないと思い込んでいる安倍首相です。保守の産経新聞まで、また、一部の自民党の政治家までもが、この法案を亡国法案として非難してもいます。安倍晋三が、教育以外の側面でも、似非保守であることの証拠です。更に、水道民営化法案、いわゆる、水道民営化を推し進める「改正水道法」なるものが国会で可決されたのも、その水道民営化後の、地域格差(水道料金の格差)など、先を予測できない、浅薄なる判断をしたのも原発流「イカサマもしも論」の範疇をでるものではありません。郵政民営化以上に愚策です。最近、簡保の不適切加入勧誘問題で、ブラックな営業が明るみ出た件でも、小泉元首相のブレーンでもあった東洋大学教授竹中平蔵は、毎日新聞で、「民営化の不徹底が招いた」と言い訳しています。まるで、ミスター文部省の寺脇研がゆとり教育の失敗が、「現場の工夫が足りなかった」と理想と現実のギャップから生じた問題点を、現場教師に責任転嫁したのと同じ手前勝手なこじつけ論法で、自身の十年以上前の政策を弁解していますが、ゆとり教育失敗の言い訳と同じものが透けて見えてきます。
 
⑤<小は大の手法を真似ても駄目!>
 
 先日、「カンブリア宮殿」(テレビ東京)という企業や社長にクローズアップする経済番組で、湖池屋の社長を特集していました。この湖池屋(日本)は、ポテトチップスの最大手カルビー(アメリカ)の二番手にいつも甘んじてきたポテトチップスの製菓会社です。一番手カルビーの真似をして、営業成績をあげようともがいてきましたが、むしろ、売り上げは下降線を辿るばかりでした。アメリカの教育を真似て、失敗・頓挫してきた轍を踏む文科省と同じです。そこで、キリンビバレッジからヘッドハンティングされた佐藤章社長は、カルビーの真似ではなく、独自のポテトチップス開発路線へと大きく舵を切り、V字回復したそうです。
 ピーター・ドラッカーが提唱し、ジャック・ウエルチが見事にGEで成功を収めた<選択と集中>という考え方は、パナソニックや日産などの大手企業にのみ当てはまる経営理念、マネジメントであり、中小企業には当てはまるものではないのです。むしろ、小であればあるほど、その逆をいかねばならないというのが、個人的意見でもあります。
 日本は、アメリカはもちろん、中国の真似をしても駄目なのです。一部評論家が「日本にもGAFAを!」と叫んでも無理なのと同じです。
 
⑥<伝統は破壊するものではなく、微調整してゆくもの!>
~戦後GHQが、天皇制を廃止せず、象徴として存続させたように~
 
 これまで、日本の入試システムは、大学各自で独自の入試問題を作成し、オリジナリティを保持してきました。海外の留学生は、12月、入試直前になると、日本国内の書店の参考書コーナーの赤本の多さにびっくりするそうです。この、大学各自が入試問題を作成し、独自の求める学生を選別してきた方式は、世界の非常識であったはずです。これとは真逆なのがアメリカのAO方式です。そもそもAO入試は、アメリカの各大学で千差万別で行われてきた歴史もあり、独自のノウハウが蓄積されてきた賜物です。1979年以来、共通一次・センター試験と、入試制度として、そこそこうまく機能してきた制度を破壊し、焦眉の急のいじめ問題・教職員の待遇改善・2~30人学級の実現などを棚上げして、まるで、待機児童問題が安部政権にとって超難題であるので、お金で解決する幼児無償化でごまかし、国民を騙そうとした政策と同じこざかしい政策で、教育改革を行っているのが、安倍内閣の底の浅さというものです。
  これまでの共通一次{地方の国立大学の自殺行為}からセンター試験{私大参加型による私大の自殺行為}、そして、2020年度の新テスト<英語の民間試験(これは2019年11月に中止となる)・数学と国語の記述式(これも12月に中止となる)>の導入は、真の意味での全国一律一斉大規模試験の自殺行為であります。“入試制度の改善より、教育現場の改善が先”であるのは賢明なる教育関係者のみが指摘しているところです。
 
 今般の大学入学共通テスト(2020年度)は、国公立大学対象の大学入試共通テストに一部、民間企業が参入する(これは中止となった)、また、数学・国語記述問題(これも中止をなった)をベネッセが担当する。一種、郵政民営化における簡保不適切勧誘問題、水道民営化による地域格差問題、教育現場に民間企業のスマホという便利ツールを持ち込ませるなどなどと、こうした方針が果たしてどういう事態を招くのか、その未来予想図が見えていないのです。これらは、政府が楽観視している以上に深刻な、取返しのつかない事態を日本の未来にもたらすということが分かっていない、安倍晋三・下村博文・文科省の連中なのです。
 余談ではありますが、共通一次試験センター試験、大学入学共通テストこうしたネーミングに思いを馳せますと、まず、第一段階では、漢字のみの“威厳ありげ”な響きのものでありました。次は、少々軽めのセンターというカタカナが入ってきます。そして、第三段階になりますと、試験から“テスト”になってしまいます。入試というものが、推薦やAОというものに押され、存在感が薄れてゆく教育のご時世の様子が感じ取られてもきます。これは、国民的行事でもある、公的試験システムを破壊してゆくものなのです。
 

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