カテゴリ

HOME > コラム > 保護者の方へ > 高等教育(大学生)で一番大切な科目は何か? 

コラム

< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

高等教育(大学生)で一番大切な科目は何か? 

 最後に、 大学生で一番大切な科目は何かということになりますが、それは、国語(=読書)と専門科目ということになります。英語は敢えて第三番目にします。専門科目は、その学生自身の専攻なので、当然ながら言及しません。それでは、なぜ大学生にもなって国語かということです。それは、読書の習慣と関連してきます。一般の世論調査によりますと、小学生、中学生、高校生、そして大学生と年齢を重ねるにつれて本を読む時間が激減してくるのは有名な話です。それは、お父さん連中が、40代、50代と会社の管理職、子育て、老齢の親の介護など、様々な要件で、音楽を聴かなくなってゆく、また、映画やアートへの興味が薄らいでゆきます。こうした現象と同様に、若者が本を読まない傾向は、<精神の規律=知の鍛錬>のようなものが失われてゆく顕れではないでしょうか。もちろんスマホに接している時間が最大の要因であることは、自明ではあります。読書という国語の淵源、つまりは、言葉の習得・修練、発言や文章の洗練さ、知識の習得と教養の錬磨、こうした鍛錬は、まず、読書という行為からしか得られぬものです。大学生ともなると、高校までの国語(現代文)という科目を、禁欲的読書と規定してもいい、それは、小学生の算数が、中学生になると数学という名称を変えた科目として生まれ変わるように、高校までの国語という科目を、大学生以上ともなると教養読書として自身の内面に位置づける覚悟が必要になります。今や、平成後期になりますと、大学生は、まず講義の授業用のを購入します。高校生は家族用の、父親専用のパソコンを借用していましたたが、大学入学を機に、高価な自身専用のパソコンを購入します。そして、それを皮切りに、アナログ、また準デジタルであった中等教育が、準アナログ、またデジタル生活へと変貌するのです。中高生が、読書の時間をスマホに食われるように、大学生が、教養を積むべき読書のプライベートな時間がパソコンに追いやられてしまうのです。ここなのです重要な点は!
 
 グローバル化した令和の時代、便利なもの、安易なもの、手軽なもの、こうしたものを追求するのが<デジタルの性>でもあります。その文明のロジックという激流に流されてしまえばしまうほど、人間の内面に連綿と流れてもいる文化の一貫性を根絶やしてしまいかねないのです。
 今や、小学生からデジタルの波に組み入れようとする政策、それが、デジタル教科書の導入であり、プログラミング教育の推進であります。何度も、申し上げますが、小学校から高校まで、心身がもっとも成長する期間に、人間の文化というものが根付く段階で、その文化を文明の利器で根付かせようとすることは、ちょうど、いつかは、スマホ、パソコン、電子書籍を大人になって避けては通れないのだから、早期にそうしたものを幼児に与えて免疫をつけさせればいい、そして<デジタルネイティブ>を多く国家レベルで生み出せばいいという論理は、ちょうど、成人したら、酒やたばこをたしなむのだから、小学生からそれらを与え、飲酒喫煙の習慣を身に付けさせればいいといった理屈と同じことなのです。小学生から財テクや株の投資を教えるべき論と同じであります。
 せめて義務教育の小中の段階では、特にアナログの象徴、紙の本による読書という行為が必要なように、大学生ともなれば、飲酒や喫煙に染まる者もいましょう、ですが、身体の見地から、健康を考慮する意味でも、生涯の知識・教養という意味でも、知の健康寿命という観点からも、この国語という科目を“知の健康サプリメント”にする意識・自覚を忘れてはいけないのです。
 
 現役ばりばりで活躍されているファッションデザイナーのコシノヒロコは、先日兵庫県立美術館で自身のアート展を開きました。また、彼女自身は、関西の大学で教鞭もとられてもいるそうです。文化服装学院から世界のファッションデザイナーにまで登りつめて、今では、自身の絵画を描いて、自身のセンスの泉を絶やさぬように心がけてもいるといいます。商業ビジネスで名を馳せたデザイナーが、美大の道へ後半生プライべートで足を踏みいれているということ、これは、デジタル(ビジネス)からアナログ(アート)への回帰です。
 また、ユニクロや楽天、セブンイレブンのロゴを手掛けた、企業のブランディングプロデューサーとして今や、日本一のクリエイティブディレクターの佐藤可士和も、先日東京国立美術館で、自身の仕事を回顧する展覧会を開きました。私流に言わせると、戦国末期、信長や秀吉の美の目利きとして彼らを武将以上にイメージアップさせた<平成の千利休>の存在感を漂わせます。彼も、多摩美術大学グラフィックデザイン科から博報堂へと進み、その後独立して、今の名声を得るまでになっても、近年彼自身は、絵画という自身のアートに足を踏み入れる行為へとらせん階段を上昇した感があります。彼自身、50代後半ともなれば、自身の感性や発想などが枯渇し、萎えることへの“アンチエイジング”だと思われます。
 
 このコシノヒロコや佐藤可士和といった商業ベースのデザイナーや企業ロゴのクリエーターとしての立ち位置から、やはり、彼らは、美術、アートとしての鍛錬を忘れてはいない。それは、信長や秀吉が、武力だけでは天下布武・天下統一には限界がくる、それは、“武”という武器では武将や民の心まで支配はできぬと悟り、茶の湯という精神の世界の匠でもある利休を無視できぬように、また、住居の装飾という狩野派の永徳を登用したり、武ではなく文というものを根付かせた如く、信長や秀吉は、文化という側面を自身にも晩年課した。それは、コシノや佐藤の後半生のアートへの刮目・回帰という防衛本能と同類のものがうかがわれます。
 
 世の社会人の間で、教養というものが再評価の対象となり。美術(アート)がビジネスに役に立つという言説が流布し、禅をルーツとするマインドフルネスがブームとなり、新書のジャンルが読書離れといわれながらも、活況を呈している現状などを考慮すると、デジタルの行き過ぎによる、世の賢者の自己防衛本能の覚醒に思えて仕方がないのです。そうしたビジネスマンは、恐らく30代以上でありましょう。そうなのです。会社・企業・社会で10年近く働いて初めて、読書を淵源とした、小中高の国語というバックグラウンドの意義に目覚めていると私は思うのです。
 これは、私の教え子の高校生、それも高校生になって数学を捨て、英国社の文系に進まざるをえなくなった女子生徒に語ることです。「中学の3年間で、もっと前向きに数学を学んでおけばよかった」「中学生で、もっと高校数学を先取りしておけばよかった」と後悔しているだろうと。中学時代の数学への情熱の薄さ、取り組みの甘さが、ある意味、文系へ進まざるをえなくなった大きな原因でもある。その後悔の念と相似関係ではないが、大学生の頃、もっと本を読んでおけばよかった、もっと、経済学部以外の哲学や文学の講座をキャンパスで受講して学んでいけばよかった、などなど、こうした知的錬磨への生ぬるさの根本原因は、読書習慣の欠如、国語という科目への軽視、これが十年後しっぺ返しとなって返ってもくることを二十歳そこそこの知の若輩者は気づいていないのです。
 
 これは私自身の足掛け二年間の社会人経験ならではの上で言えることです。
 
 企業を立ちあげる人、企業を再建する人、大企業を引っ張っていく人、こうした人達は、英語ペラペラでなくてもいい。それは通訳を雇いさえすればいい。パソコン・ITそんなに詳しくなくてもいい。そんなの、システムエンジニアなどにアドヴァイスを請えばいい。財務体質、MBAで学ぶ知識など、極端だが、なくてもいい、そんなの、公認会計士などに委託すれば済む話である。でも、こうしたスキルは、あったほうがいいに決まってはいるが、あくまでも、必要条件程度のものである。スキルのアウトソーシングができる範疇のものです。十分条件とはなりえない。では、その十分条件とは何か?手っ取り早くいえば、教養であり、知恵であり、知識(総合知)でもある。武器となる教養、即ち、社会を生き抜く大局観です。これは人間一個人、究極の決断を迫られた時“外部委託”などできないものです。組織、企業、社会で、どれだけ言葉で人を動かすこができるか、それが、起業するにも、会社再建を担うにも、また出世するにしても、その要諦になるものです。渋沢栄一からドラッカーに至るまで、松下幸之助から稲盛和夫に至るまで、その名言は、時代を超えて、超デジタル社会になっても金言として輝きを失ってはいません。それは、国語という科目を終生、自身の学びの習慣と化した巨人の生活習慣の帰結でもあります。恐らく、信長・秀吉・家康で、家康が天下をとった最大の要因は、<周囲の人間と自身の読書>にあったと思われます。小学生と変わらぬことをする、日々自身の知らぬ言葉、漢字を習得し、濃密なる、馥郁たる文を読む。その作者と対話し、自身の考えを日々確認、時に改め、そして刷新してゆくことを怠らない。これは、SBIホールディングCEOの北尾吉孝氏も似たようなことを自著で語っておられます。
  信長も秀吉も知恵も知識もあったであろう、しかし、教養というものに疎かった。それが、短期政権の原因でもあった。その点家康は、彼らより数段“教養”というものを持っていたように思われます。それは二人を半面教師とした経験もあれば、儒学者、僧侶、豪商、外国人、更には、名門武田家(戦国武将の失敗例)の旧家臣など、様々なジャンルにより、知の経験を積んでいったはずである。よって、江戸230年の長期政権の礎ともなった。これは、流通業におけるダイエーとヨーカドー(Seven&I)とジャスコ(イオン)の違いに典型的に表れてもいる。
 
 一般の凡庸なる新人社会人は、大学を卒業すると、学びは終わったと勘違いしています。これからは、働く、そして給料をもらう、そして企業に貢献する、そして役職が上がってゆく。その青写真で入社する。しかし、仕事、営業、人間関係に日々追いやられ、学ぶという人生上の<人間の終生の課題>を忘れてしまう。物事は、使うだけでは消耗する。汲み取るだけでは、知の井戸は枯渇する。この人生の摂理を約10年前後で気づく者もいれば気づかぬ者もいる。私が大手企業を2年足らずで辞めたのは、数カ月、半年、1年と企業勤めをしてゆく単調なるサラリーマン生活の中で、自身は大学生のころより段々“バカ”になってゆくことが自覚されてきたからでもある。それに、そんな自分に我慢ならなかった。これは、高校時代よりも大学時代の方が、バカになってゆくんじゃないかと自覚される青年もいるやもしれない。大学よりも高校の方が、‘危機感’をもって学びに‘情熱’があったという事実は、会社より大学の方が自身が成長していた実感とパラレルでもあります。
 更に、毎朝の電車通勤の中、大学生の頃の感性がだんだん鄙びてゆく危機感が芽生えてきたからでもある。それが歯がゆかった。これは、上司の姿を参考に、10年後の自分を想像すると、自身が社畜の如く見えて、ぞっとしたものである。その“痩せたソクラテスよりも太った豚”の自身の姿に嫌気がさしたことが退社の大きな理由である。
 
 「明日死ぬと思い今日を生きよ、永遠に生きると思い学べ」(ガンジー)
 
 「死ぬときに後悔の残らない人生、しない後悔よりした後悔」(三木谷浩史){※この念に囚われた三木谷は、日本興業銀行を辞め、楽天を立ち上げた}
 
 この二人の言葉が心に沁みる社会人は、読書を基盤とした学びを怠らない。社会人MBAなんぞ必要ない。また、脱サラして、個人のやりたいこと、起業立ち上げでもいい、フリーランスでもいい、……士と名の付く仕事を始めるもよし、そうした社会人の第二の道へと踏み出すのです。

カテゴリ:

< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

同じカテゴリの記事

2021/10/04

教育論はビジネス論とはわけが違う!

 東日本大震災の後、東北の湊町に巨大な防潮堤を築いた地域があった。海の見える生活、美しい景観、それよりも防災対策を優先した町の方針である。私なんぞは、こんな巨大な防潮堤など不要論者であるから、なんて馬...

続きを読む

2021/08/23

初等教育における一番大切な科目

 では、国語の重要度が、中等教育の段階で、低かったのですが、その根拠を率直に申しあげましょう。それは、国語という科目は、ある意味で、小学校低学年で“勝負”が決まってもいるという...

続きを読む

2021/08/09

中等教育における英数国の重要度

 これから中等教育における英数国の大切さの比重に関してお話したいと思います。これは、弊塾の入塾ガイダンスで、特に中学生のご父兄にお話してきたことでもあります。    では、まず、中学校3...

続きを読む

2021/05/10

数学は情緒である。国語が数学を育む。

 同じ現代文の参考書を使って国語が伸びる人、青チャートを使っても挫折する人、一問一答集と山川の教科書だけで、東大の二次の日本史論述が書ける人、こうした格差、学力の開きというものの淵源をどこに探るべきな...

続きを読む

2021/05/03

国語は算数へ、算数は英語へとつながる!

 国語という科目の厄介さをこれから申し上げてみたい。    有名人を例にあげましょう。今やタレント予備校講師の林修氏に関してであります。彼は、祖父が日本画家で、小学生時代にその祖父の書棚...

続きを読む

このページのトップへ